中 山 道
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48 細久手宿御嶽宿へ 歩行地図 |
細久手-平岩辻-鴨之巣-津橋-謡坂-西洞-井尻-御嶽入口 10.9km |
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48 細久手宿
慶長9年に大湫宿が設けられたが、それでも大湫、御嶽間は4里半(17.7km)もあり、両宿からの要望もあって、慶長15年に新しく設けられた。
宿の長さは3町45間(約410m)東から上町、中町、下町に分かれていた。しかし、ここも大湫同様、「久手」と呼ばれているように。湿地帯で山に挟まれた小さな宿で、経営的には苦しく、尾張藩の援助があった。本陣、脇本陣の他に、尾張藩が独自に本陣を設け、これが今に残る「大黒屋」である。
本陣1 脇本陣1 旅籠24 |
2009年8月24日 大黒屋を出発 7:40
■細久手高札場跡~公民館
前日「大黒屋」さんに宿泊し、女将さんに送られて、朝8時出発。宿入口まで戻ってみた。
宿場東口から西へ進むと右手に細久手宿●高札場跡の標柱が立ってます
●細久手の町並
細久手は大湫同様、鉄道から遠く、大きな国道も通らず、静かな町で落着いた町となっている。建物はほとんど建替えられて、本陣も脇本陣も残っていない。唯一尾張藩が別に本陣として定めた、「大黒屋」が往時の姿を残しているのが特色となっている。人通りはほとんどなかったが、月曜日の朝で、通勤で抜けていく車が結構多く、道も狭くて、トラックがすれ違うのに難儀していた。 |
■公民館~細久手口
高札場の奥へ上がって行くと庚申堂があります
●細久手宿庚申堂
「細久手の庚申さま」と親しまれてきたというお堂で、寛政の大火のあと、宿の厄除けとして再建されたという。高台にあって、宿を一望でき、境内には石仏や庚申塔が沢山並んでいる。
宿の中程には●「公民館」があって、広い駐車場があり、宿場のモニュメントが置かれている。公民館も宿場の雰囲気を残そうとするのか、瓦葺の和風建築であった。 |
●尾張藩定本陣「大黒屋」
江戸時代から残る建物で、尾張徳川家が他の大名との相部屋を嫌ったために尾張藩の定本陣に定められていた。また問屋も務めていたという。
うだつ、玄関門、式台、上段の間をはじめ各部屋もそのまま保存され、往時の面影を色濃く残す旧家です。現在も旅館を経営していて、なにしろ大井、太田間の宿はここしかなく、営業を止められたら、中山道を歩けなくなってしまう。料理もおいしく、ビール飲んで1万円でおつり少々というところ。
●陣跡
本陣は建物が現存していない。代々「小栗八郎右衛門家」が務め、間口22間(約40m)奥行15間(約27m)部屋数23畳数212畳、別棟添屋という広大な屋敷であった |
■細久手口~平岩交差点
●脇本陣跡地は何もなく、原っぱのまま。脇本陣は間口16間、奥行12間、部屋数19、畳数153畳、付属の添家が一つあった。
脇本陣を過ぎると、宿は終ってしまい、右手の道路から●少し上がった所に「穴観音」というのがある。小さな●「馬頭観音」が祀られていて、観音の縁日に拝むと九万九千日の御利益があると信じられ、「九万九千日観音」とも呼ばれている。 8:21 |
さらに右手に「津島神社」の小さな祠を見て、ずーっと進んでいたら、右手に「くじ場跡」という標識があるはずを見落した。やがて下り坂に変り、●「平岩辻」という交差点に出た。
右側に「土岐頼兼の菩提所 曹洞宗開元院」や」「西 つばし みたけ道」「南 まつのこ おに岩」などの●色々な道標がある。右側へ行くと「開元院」という寺があり、1.7kmもあるので寄らなかったが、美濃守護職の「土岐氏」の菩提寺だそうだ。 中山道は左へ行き、急坂を上ります。 8:35 |
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■平岩交差点~鴨之巣の一里塚
坂を進むと左手に旧道へ入る入口があり、●西坂の入口という。角に道標が立っていて、「左 仲仙道 西の坂 旅人の上り下りや西の坂」の文字が彫ってある。左の角には「瑞浪市内仲山道の影」という石碑が立っている。
●旧道は砂利道で、旧道らしくなってきた。少し上がると右手に、●「秋葉三尊」と呼ばれている石仏が見えてくる。左手には風化の進んだ石仏が安置され、中央には一面六臂(いちめんろっぴ)の観音座像、右手には明和五年(1768)の三面六臂の馬頭観音がそれぞれ石室の中に安置されています。 8:41 |
三尊の先の旧道は●林の中の気持の良い道を歩き、途中「馬頭文学碑」という石碑や、鎌倉街道分岐などもある。
そしてしばらく行くと●鴨之巣の一里塚がある。ここも両塚が残っていて、両方撮ってパノラマにしようとしたが、車が駐車していて、撮れなかった。配置が少しずれていて、地形の関係でそうなったものと思われます。ここらが御嵩町との境界でここから御嵩町になります。 9:00 |
■鴨之巣の一里塚~御殿場
一里塚を過ぎると御嵩町になり、途端に道が細くなる。下り坂を下りて「津橋」へ向うが、途中右手に江戸時代酒造業を営んでいた●「山内嘉助の屋敷跡」の石垣が見えた。草ぼうぼうに石垣が覆われてしまい、様子がよくわからない。また右手に広がる水田が屋敷跡だそうだ。
ほどなく●津橋の四辻へ出ます。右手にトイレがあったので小休止。中山道はそのまま真っ直ぐに進み家の間の狭い道を下ります。 9:22 |
すぐ県道に出て、道なりに行くと、「津橋」の交差点にぶつかり、右斜めに●「御嶽宿」への入口があります。入口から坂道を上がり旧道を進みます。諸ノ木坂と呼ばれる坂を上がると●「物見峠」。右手に馬の水飲み場跡がある。峠には和宮が休憩するために造られた御殿があり、●御殿場と名づけられた。右手に上がって行く階段があって、行くと東屋があります。御殿はこのあたりに建てられた。ここからの眺めがよいといわれているが、樹木が繁茂してよく見えなかった。昔は整地していたので、眺めがよかったのでしょう。 9:50 |
■御殿場~謡坂
御殿場跡からすぐ左手になぜこんな場所にと思えるケーキ香房、●「ラ・ブロヴァンス」というケーキ屋さんがあります。ここでコーヒーを飲もうと思っていたので、入って行くと閉っており、なんと月曜日定休なのでした。・・・・・・(;。;)
がっかりして坂を下って行くと、●唄清水へ出ます。
唄清水のいわれは尾張藩千村平右衛門源征重が
「馬子唄の響きに波たつ清水かな」 と唄ったことから「唄清水」と名付けられ、傍に句碑がある。10:03 |
■謡坂~謡坂石畳道
少し進むと、広い道へ出て、左側に●「一呑みの清水」というのがある。和宮が降嫁される際に賞味して気に入り、後の上洛の際、多治見での点茶に取寄せたといわれている。
清水から広い道を行き、右手に「十本木立場」の碑があり、その先で左へ入る。
●「謡坂十本木」一里塚がある。明治41年にこの塚は2円50銭で払い下げられ、その後取り壊されました。この一里塚は昭和48年、地元有志の手でかっての一里塚近くに復元させたものです。という案内があった。 10:20 |
右手に昔は●茅葺であったと思われる民家が建っているが、案内板によると、このあたりは安藤広重の木曾街道六十九次の内、「御嶽宿」の画のモデルともいわれています。御嶽宿はまだずっと先の話だし、ここを絵のモデルにするとは実際には見ておらず、想像図であろうと思う。
一里塚を出て旧道を下ると●「謡坂の石畳」が見えてくる。旅人は急な坂道が続くこの辺りを謡を詠いながら歩いたことから、いつしか「謡坂」と言われるようになったと伝えられている。 10:25 |
■謡坂石畳道~西洞
復元された石畳道を下ると、途中に「マリア像」入口の標識がある。標識に従い右手に入っていくと、●マリヤ像が立っていた。昭和56年、農道拡張工事を行った際に、十字架が刻まれた石や、マリア像など隠れキリシタンにまつわる遺構が多数発見されました。隠れキリシタンが弾圧に耐えながら信仰を続けていた場所で、七堂前遺跡と呼ばれています。
石畳道が終ると広い道へ出る。道なりに行くと、右手に珍しい耳と安産の神を祀る神社。●「耳神社」というのがある。耳の悪い人がお供えの錐を耳に当て、全快したら、自分の年齢の数だけ竹で編んだすだれを作り奉納する慣わしがあるといい、なるほどすだれが奉納してあった。 |
■西洞~県道
神社の先を右折して行く。●百八十八ヵ所順拝納経塚の脇を通り、西洞(さいとう)という集落の急坂を下って行くと●牛の鼻欠け坂という案内板がある。御嶽からやって来ると、急な曲がり坂のため、牛や馬の鼻が、擦り切れて欠けるほどの難所と言う意味から、この名がついた。またここを境にして、京方の方は比較的平坦な地になるという。坂を下りて来ると、周りに●田園風景が広がります。 11:05 |
■県道~御嶽入口
しばらく行くと、やっと国道へ出て、長かった峠道が終ります。国道の向うにコンビニがあり、食料を仕入れることができた。国道の右手に●和泉式部廟所というのがある。・・・和泉式部が歌を詠みながら東山道をたどって御嶽まで訪れた際に、病となったため、鬼岩温泉で湯冶したが、寛仁3年(1019年)
ついにこの地で没したと伝えられています・・・ということになっているが、式部の墓は下諏訪にもあり、本当の説は定かではない。この後、1km程国道を真っ直ぐ歩き、「長岡交差点」の先で●左に折れ、御嶽宿へ入っていく。 11:42 |
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