中 山 道
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31 洗馬宿から本山宿へ 歩行地図 |
追分-洗馬駅-洗馬公園-牧野-本山分岐 3.4 km |
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31洗馬宿
洗馬(せば)の地名は木曽義仲の家臣、今井兼平が義仲の馬の足を清水で洗い癒したことから地名がついたと伝えられる。この宿は慶長19年(1614)中山道が牛首峠越えから塩尻峠越えに変更となったとき、中山道と北国脇往還(善光寺街道)との分去れの宿場として新設された。本陣、脇本陣、問屋場のほかに荷物貫目改め所も置かれ、重要な宿場であった。本陣、脇本陣などは昭和7年の洗馬大火で焼失、今はその面影を見ることができない。
本陣1 脇本陣1 旅籠29 |
2009年6月7日。塩尻宿からの続き
8:18
■追分~駅入口
塩尻駅8時13分発の各駅停車に1区間だけ乗り、●洗馬駅に到着。駅は無人駅で降りたのはおばあさんと二人だけ。
改めて宿入口の●「善光寺道」との追分から歩き始めた。案内板を良く読めば、善光寺道の方へ50mも行けば、昔の常夜燈などを見ることができたはずと後になって気がついた。 |
歩き始めてすぐ右手に「あふた(太田)の清水」のへの矢印が出ていたので早速行ってみた。民家の庭先をかすめて、階段を下りていくと、新しい木製の流しに●「太田の清水」が流れている。木曽義仲の馬を今井兼平がここでで洗ったので、洗馬宿の名前の由来となったという伝説がある。水量は結構豊富で飲むことも出来る。
●洗馬の町並
洗馬宿は何度も大火にあって、維持に苦労したらしい。昭和7年の大火で200余の家が焼失したという。例のごとく人通りはほとんどなく、静かそのもの。 |
■駅入口~万福寺
●本陣跡
洗馬宿本陣は上問屋を兼ね、初期は三沢氏勤めたが、後百瀬家が努めた
●荷物貫目改所跡
荷物貫目改所とは、街道を通過する公用荷駄の重さを調べる検問所のことで、中山道では板橋、追分、ここ洗馬のの3ヵ所に設けられた。規定を超えた荷物には割り増し金を徴収するなど、伝馬役に加重な負担がかからないようにするためである。脇本陣の屋敷内にあった。8:40 |
●脇本陣跡
、脇本陣は代々志村家が努め、百瀬家と半月交代で問屋を兼ねていた。両家ともに広い敷地を有し、大きな庭園を持っていたようで、中山道中でも評判のものだったという。しかし両方とも昭和の火災で焼け、自慢の庭園も中央本線の敷設により大部分が失われてしまったという。
●万福寺
真言宗大谷派、山門が赤いのが変っている。住職は木曽代官山村家の娘と結婚したとか |
■万福寺~洗馬公園
宿も終る左手に公園があり、手前に●高札場跡の案内が架かっている、中山道のモニュメントがある。
後に御判形(おはんぎょう)と呼ばれた高札の伝馬駄賃御定や幕府のお触れが掲げられていたところである。明治になって裁判所の出張所の敷地の一部になり、後に建物は宗賀村役場になり、現在はどんぐりハウス(草木染め体験施設))になっているとか。
●芭蕉句碑(昭和50年建立)
・・つゆばれの わたくし雨や雲ちぎれ・・・と読むらしい。(本当は半分読めなかった) |
■洗馬公園~牧野
下り坂の途中から左に曲り、線路を越えると、その先に●「言成(いいなり)地蔵堂」がある。このお地蔵様に「願い事をすれば必ず叶えて貰える」といって、洗馬宿の時代から周辺の信仰を集めていたそうだ。
●滝神社
坂を下り、中央本線のガードをくぐると左に滝神社の鳥居が見える。本堂はこの先奥に400mくらいの所というので行くのはやめといた。 8:55 |
■牧野~本山
街道に戻り進んで行くと、途中に●「牧野一里塚跡」の標柱が建てられている。塚はなくなってしまい、ちょっと朽ち果てかけている柱だけが残る。
旧道はこの先15分ほど歩くと国道19号に合流。さらに15分ほど歩くと次の宿場の本山宿である●分岐点に来る。真っ直ぐな広い道で国道からはなれ静かな道になってしまった。左手に「本山宿」の標柱が立っていが、宿の入口はもう少し先になる。
9:20 |
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