4 布田五宿~府中宿  歩行地 図
 旧甲州街道入口交差点-国領-布田-調布-石原-白糸台-八幡町         7.87km

 4 布田五ケ宿
 現在の調布駅を中心に東側より、国領、下布田、上布田、下石原、上石原の五宿からなる宿場。五宿あわせて一宿の機能をもって、6日交代で宿継ぎ業務を分担していた。これら五宿には本陣、脇本陣共無く、旅籠も計9軒だけ。また、江戸からの距離も五里三十二町余と中途半端で「間の宿」のような存在だったと云われる。宿の長さは合計で30丁余(3270m)。

2017年7月2日の続き
■旧甲州街道入口交差点~国領神社
 ●旧甲州街道入口交差点で二叉となり、右手は八雲台へ向かい、左手は国領へ向かって、次の宿場の布田五宿の内の一つ「国領宿」へ入ります。 ●国領町へ入って行きますが、国領宿の長さは約900m。上宿と下宿に別れ、現在の国領町がすべて含まれる。宿場の雰囲気は勿論無くなっていて、FC東京のフラッグが沢山架けられているだけ。
 国領駅前を過ぎると、道は右へ屈折しており、左手から合流してくる狛江通りのすぐ先に●寛政10年(1798)の庚申塔がある。
その先常性寺の手前、国領神社の参道を入って行くと国道脇に●国領神社があります。元は多摩川のほとり杉森の地にあったところ、度重なる洪水の為この地へ移転してきた。境内の藤の木は千年の藤と呼ばれ、よく延び茂るので「不二(無事)」に通じ、延命、商売繁盛の神木として名高いという。  15:25

■国領神社~布田1丁目
 街道に戻ると右手に●常性寺がある。創立は鎌倉時代。ここも国領神社と同じく、多摩川沿いから街道沿いに移っている。境内に●小橋の馬頭観音がある。この像は甲州街道の小橋(現馬橋の西50m)の馬の捨て場にあった物を移設してきたもの。
 街道は常性寺の西側で「三鷹通」と交差し、布田2丁目、●旧下布田宿に入ります。昔の面影は残っていないが、狭い間口で奥行きが長い短冊状の区画が幾らかの残っているのがわかります。北側の国道との間に1本平行な道が通っているが、これは住民が表通りを通らずに普段通行する裏道の名残。
 左手奥に●蓮慶寺があります。地区のお祭りの片付けで人が沢山出ていたので近寄らなかったけれど、扉に葵の紋が付いた山門が見えている。将軍家光から寺領10石9斗が寄進された朱印寺であったといいます。  15:40

■布田1丁目~調布駅
 蓮慶寺の先は●調布駅前。寺の西隣で下布田宿が終わり、布田五宿の中心であった上布田宿に入ります。宿の長さは200m程と一番短いが、西隣の小島村が加宿扱いとなっていた。
 「調布駅北口」交差点手前に北へ延びる「布多天神」への参道があり、そこを進むと国道北側に●●布多天神があります。式内社で布田五宿の総鎮守。 ここも国領神社と同じく多摩川沿いにあり、洪水をさけて1477年にこの地に鎮座したものと云われます。 かつての社殿地は布田5丁目に「古天神公園」という公園になっています。
 さて4時を過ぎ、左手に●調布駅があるので本日はここまでとして、京王線で帰りました。   16:10

2017年7月17日  甲州街道再訪の3回目 
■調布駅~下石原
 ●調布駅9時35分到着。青いシートが取れ、前回と違う雰囲気です。 北口交差点から府中へ向かいます。右手駐車場の脇に●小島一里塚の碑があります。日本橋から6番目。 樹齢200年を越すエノキがあったが、危険防止の為昭和40年頃伐採されたのは惜しい。
  下石原1丁目交差点を越すと●旧下石原宿。ここも古い面影は見当たらない。200程先を北側へ真っ直ぐ進むと国道の向側に●八幡神社があります。下石原宿の鎮守で、このあたりの領主の太田氏により、延宝年間(1673~)以前に勧請されたという。9:55

■下石原~上石原
 街道に戻ると、左手に●源正寺があり、入口に六地蔵、庚申塔などが並んでいる。寺の前で道はわずかに右にカーブし、国道から分岐した都道229が合流してきます。合流するあたりから布田五宿最後の上石原宿に入ります。
 合流してから飛行機のエンジン音がして、ふと上を見ると双発のプロペラ機が飛んできました。直ぐ北側に調布飛行場があるのでした。調布から伊豆諸島へ定期便が通じており、●エアークラフトドルニエという飛行機でしょう。
 中央高速ガードの手前、左手に●西光寺があります。創建は応永年間(1394~)で家光から14石2斗の寺領を受けた朱印寺であっt。寺の入口に●弘化3年(1846)の常夜燈と近藤勇の銅像があります。勇は現在の調布市野水(調布飛行場の北側)の生まれ、寺との関係は案内板を見て下さい。   10:10

■上石原~白糸台3丁目
 中央高速ガードから300m程で飛田給に入り、布田五宿は終わります。飛田給駅前左手に●薬師堂があります。境内に●行人塚というのがあり、本尊の薬師如来像を彫り上げた「松前意仙」という人物が像の完成により本願を果たしたということで、元禄15年(1702)自ら墓を掘って入定したという。
 府中市白糸台に入ると、右手に古びた●常夜燈が見えます。嘉永5年(1852)のもので「村内安全」、 「秋葉大権現」などと刻まれている。またその先、かっては立場茶屋があったといわれている所で、今はその面影は残されていない。 車返団地交差点の右手に、観音院、その隣に●神明社があります。この神社は古代に多摩川で麻布を染めた染殿にゆかりのある神社といわれます。10:40

★京王線の南側
 さて府中市白糸台地区はその昔、多摩郡車坂村といい、主体をなす集落は街道より南側の立川段丘の崖線上の「ハケ」上に位置して、寺院、神社などの史跡が残っているので、ちょっと寄り道してみました。甲州街道が現在の位置に設定されてから、次第に街道沿いに移り住んで来たそうです。
 ●府中白糸台幼稚園の敷地は戦国大名浅野長政が一時隠棲した館跡で都の旧跡に指定されているが、かって残っていた土塁などは消滅している。その東隣が●諏訪神社。ここも諏訪因幡守某という武士の屋敷跡といわれている。右側に「はけた坂」という多摩川へ向かって急坂が下っている。
 西へ少し向かうとあるのが●八幡神社。旧車返し村の鎮守で西隣の●本願寺を再興開基した「宮崎泰重」寺の守護神として勧請したもの。本願寺は頼朝が奥州より持ち帰った藤原秀衡の守本尊と伝えられる薬師如来を当地に祀ったことに始まったといいます。

■白糸台3丁目~若松町
 街道に戻り、西武線を越えて郵便局を過ぎると白糸台1丁目。ここは旧上染屋村にあたる。立川段丘ハケ下の多摩川沿いにあったが、街道の設置後街道沿いに移り住んで来たといわれる。左手に●染屋不動があります。左側に不動堂があり、重要文化財の銅造阿弥陀如来立像が安置されているらしいが見ることはできない。 その先の大通り手前で右手に鳥居が見えるので、200m程行って、国道を渡ると●上染屋八幡神社があります。上染屋村の鎮守社で、承応2年(1653)多摩川の洪水で社地が流失したため当地へ遷座してきたという。  集落にせよ、寺社にせよ多摩川の洪水で移転したという例が国領町あたりから多く見られます。
 大通りを過ぎると若松町1丁目。旧常久村にあたる。ここも元は多摩川沿いにあったといわれる所。 300mほど先を左に入った、品川街道の所に●常久一里塚があります。日本橋から7番目の一里塚で、品川道は江戸初期の甲州街道にあたるという。
 すぐ先右手奥に●常久八幡がある。 常久村の鎮守社。例に漏れず多摩川の洪水により移転鎮座している。   12:10

■若松町~八幡町
 東府中駅前の少々複雑に交差する道を真っ直ぐ進むと●八幡町。東から3,2、1丁目となっているが、全体が旧の八幡宿。とはいうものの宿駅ではなく、全体が府中大国魂神社の神領であり、八幡宿村と呼ばれていました。
 京王線の踏切を渡って400m程先の左手に「武蔵国府八幡宮」の大きな石碑が立ち、鳥居があるので左折して鳥居をくぐって行くと、参道は京王競馬場線に遮られている。そこを渡って行くと、深い木立におおわれたいかにも神域といった感じで、その中に●八幡神社が鎮座している。大国魂神社の末寺であり、八幡宿という地名がこの神社に由来することはいうまでもない。
 そのまま踏切を渡らず線路に沿って西へ行くと、府中競馬正門前駅を過ぎる。 駅の西隣から大国魂神社へ通じる通りは●京所通りといって慶長年中の古い甲州街道であったといわれています。この道に沿って神職や神人であった人達の家が並んでいて、現在も神社の宮司を務める家も存在していました。
 京所通りは大国魂神社の東側へぶつかり、そこを右に曲がると●武蔵国府跡という史跡があります。武蔵国府は発掘調査の結果、大國魂神社の境内および、その東側一帯に存在していたことが確実となり、さらに「国庁」とみられる大型建物跡が発見されて、史跡として整備された。
 このあたりはすでに府中宿の中入っているので、改めて府中宿の入口である、甲州街道「八幡宿」交差点まで戻り、次の府中宿へ入って行きたいと思います。  13:15

 3上下高井戸宿  5 府中宿へ