42教来石~蔦木宿  歩行地 図
 下教来石-諏訪神社-山口-新国界橋-下蔦木  4.5 km
42 教来石宿
「キョウライシ」と呼び、名の由来はヤマトタケルが東征の折り、座った大きな石を、村人が「経て来石(へてこいし)」と呼び、村名にしたが、経を教と書き誤り、今の名になったといわれる。またこの宿は宿場は旅人のためではなく、国境の警備が目的であった。口留番所「山口の関所」が置かれ、信濃と甲州の国境警備の役割を果たした。
本陣1 脇本陣1 旅籠7 

2008年3月29日台ケ原より続く 16:05
 下教来石信号で20号線と合流して右折する。(写真は左側を見ており、右折は手前に向かう)
国道歩きは数分で、すぐに右の旧道へと入りますが、その間に明治天皇御小休所址の碑があります。本陣だった河西家の跡といわれますが、説明板の類がなにもないので確かなことはわからない。国道の反対側なので気がつかないで通り過ぎてしまい、あとで戻りました。

 駐在所、右に郵便局があり、その郵便局の手前を右へと入って行きます。ここを明治天皇が通ったとき下の田圃では田植えが行われていて、天皇はそれをご覧になったという、いうならば「天覧の田」というような場所です。今は田植え前でなにもなし。奥に七里岩が良く見えます。「明治天皇御田植御通覧之址の碑」もこの先ににありました。明治天皇は明治十三年六月二十三日に、この場所から田植えをご覧になったとあります。16:15

●諏訪神社
 創建は不明であるが、教来石の産土神です。案内によると本殿が見物で、一間社流れ造りで、建築の特色は、随所に施された彫刻装飾にある。身舎壁面の「猩々と酒壺」背面の「唐獅子」小脇羽目の 「昇竜と降竜」蟇股の「竹に雀」脇障子の「手長と足長」の浮彫、向拝正面に中国の故事「ひょうたんから駒」 の丸彫など、豊富な意匠、奇抜な図柄、加えて精巧な彫刻は、全体の均衡を失わず、よく「立川流」の作風を伝えており・・・・・・・・・・と言いつつも改修中だかで、何も見えず残念。ただ覆屋が味気ない建物ではなく、神明式の神社形式になっているのが愛嬌というか。  

 次に左手に現れたのは、●御膳水跡です。
天皇の巡幸の際、天皇はこの細入沢の湧き水を飲み、美味しかったのでお誉めに与ったとのことで、天皇も休止しては跡に碑ができ、少し誉めたら碑ができで、うかつに物も言えない感じがする。現在は枯れて水は流れていない。再び旧道へ入って行く。「清流と緑のふるさと白州」歓迎塔が立っている場所から右へ入っていきます。ここからが上教来石の集落です。国道と並んで静かな道を行きます。 16:25

 ●山口の関所跡
 信州口を見張った国境の口留番所である。天文十年(154)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。この番所の記録に残る大きな出来事に、天保七年、犬目宿で見た、犬目の兵助主導の「甲州騒動」の暴徒がこの地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた判断をとがめられ、番士が「扶持召し上げられ」の処分を受けたことである。  16:35

 関所跡から田の中を行くと、国道に出る。新国界橋は、甲州と信州の国境にかかる橋である。
 国道の向こう側にコンビニがあって、駐車場の脇に、とても大きな石碑があります。これは教来石出身の山口素堂の句碑です。有名な
  目には青葉 山ほととぎす 初かつお
の句が刻まれています。
 この先のルートは問題があって、本来の旧道はコンビニの脇を通り、奥へ向かうようですが、工事中のようだし、行ける雰囲気ではなく、奥を睨むと橋があっても、遮断されているようであったので、この新国界橋を渡ることにしました。 

 橋を渡り、国道を進むと、先の旧道から来ている道に橋が掛かっていて、電流付きの金網が張ってあります。帰宅してサイトを色々調べると、やっぱりこちらの方が旧道で、この橋の所に江戸時代の国界橋があったようです。冬に通ったという例や、強行突破して感電したという例もありました。電流は猿が出る為もあるようです。100m行ったところで右へと登ります。 16:55

 急な登りの旧道へ入って最初にあるのが、●日蓮上人の高座石。村には悪疫が流行し村人が難渋していたので、上人は三日三晩この岩上に立って説法とともに加持祈祷を行い、霊験をあらわしたという。しかしどれが高座石なのか、説明柱は立っているものの、よくわからなかった。
●武川筋と逸見筋の合流点の道しるべ
 追分で、逸見筋というのは、信州方面から来る旅人は、釜無川が出水すると、ここからと七里岩の北側通って韮崎へ行くことができた。この碑には「へみみち にらさきまで むしゅく」と刻まれています。 17:00

 ●真福寺
 道標を進んで突き当たるのが、日蓮に感応し真言宗から日蓮宗に改宗した真福寺。珍しい鐘楼造りの山門が建っており、いかにも風格を感じる。
●応安の古碑 
 寺を過ぎ、右側に現れたのが「応安の古碑」。応安は北朝の年号で1368~1375まで。後ろに「子乃神」という碑がある。外の碑は薄暗くなってきて、文字が良く見えなかった。  17:07

 やがて古代米の里という看板が下がっている場所に出会う。ここはNHKの街道てくてく旅で、勅使川原郁恵さんが田植えをした場所というのが、ブログに出ていた。看板から右へ入った水田が、古代米を植えた田らしい。まだ3月で田には何もない。古代米とは、稲の原種の特徴を受け継いでいる米のことで、赤米や黒米などが現在でも売られている。たんぱく質やビタミンB1が豊富ということで私も白米に混ぜて食べていますよ。

 坂道を下ってゆくと次の宿、蔦木宿に入ります。時間は午後5時を過ぎ、明るい内に、本日の予定地の原の茶屋手前まで行くのは不可能になりました。写真もあと一時間くらいで撮れなくなるだろうと思います。

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