35 鶴瀬宿~勝沼宿    歩行地 図
 鶴瀬宿-隧道西-共和- 柏尾橋-上行寺-(勝沼ぶどう鄕駅)  6.2km
35 鶴瀬宿
  関所跡を出て130m程度と短い宿場であった。駒飼宿と合宿で継立業務は一日から二十日まで行い、月末までは駒飼宿が行った。 
本陣1 脇本陣2 旅籠4

■鶴瀬地区の石碑と鶴瀬宿の標柱
 関所を過ぎると入口右手。標柱には、「江戸より第三十一宿、江戸へ三十里二十七丁、甲府へ五里一丁」とあります。この場所が鶴瀬本陣跡でもあったそうです。
■古跡血洗沢の標柱
 石垣の上にあり、注意しないと見逃します。そこには「この地は土屋惣蔵が、逃亡した跡部大炊介を追尾して斬り、この沢で血を洗い流したと言われています。」と書かれています。ただこれだけでは武田氏滅亡の歴史をかじっておかないと何のことやらわからないでしょう。この先古跡鞍懸などというものもあります。

 さらに国道を行くと、トンネルが見えてきて、旧道は右へ山道を上っていくことになっている。右へ上る道が見えている。ここが「よこぶきのくわん音」への道になります。
 上がる途中に「観世音菩薩」と彫られた石碑が建っている。

 トンネルのちょうど上に、聖観音堂の標柱、また、その近くに「観音の甍見やりつ花の雲 芭蕉」の標柱も立っている。
■観音堂への登り道
 上へ登る山道があり、お墓が点々とあるので、地区の墓地ではないかと思ったが、一応登ってみた。細い九十九折の登り道がかなり続き、一汗かいてしまった。

■観音堂
 一汗かいて、登って行ったら、忽然と朽ちかけたようなお堂に出くわした。もちろん無人で屋根だけは直したのか、新しそうながら、建物本体は壁も落ち、扉もなく荒廃そのもの。
 ただ後ろの東屋のような所に面白いものがあった。わらじの古いものが大量に積まれている。旅の無事を祈って奉納していったものかと思う。しかしこんなわらじ何頃のものだろう。相当古いが・・

 観音堂の前を通過して、細い山道を下る。本当に細く、ちょっとでもすべるとガケ下に落ちてしまう恐れがある。下ると、国道20号の下を直角に渡り、「共和」という地区に出る(昔は横吹)。ここが旧道になります。地区に入る手前に
■古跡武田不動尊
 特に案内板はない。「旧甲州街道」と記された標柱があるが、ここは往時の面影が残るひなびた街道である。 

■共和地区(横吹)から見た勝沼
 ここの国道20号線は日川がつくる峡谷の中腹に作られていて、旧道も同じに通る。共和地区から西はなにもさえぎるものはなく、前方(西方)は絶景である。前方山の山腹はブドウ畑が続き、その奥に勝沼の町が霞んでいる。
■「近藤勇 柏尾古戦場」/近藤勇之像
 と記された標柱が建てられている。ここは明治元年、近藤勇が率いる幕府軍と板垣退助が率いる官軍の先鋒隊が戦った地である。ここの勇像は少年隊のようで格好良くない。 

■大善寺
 武田勝頼が落ち延びる途中、1泊した寺である。また僧行基が修行満願の日に夢の中に、ブドウを持った薬師如来が現れたことから、甲州ブドウ発祥の寺とされる。
 ●山門
 三間一戸楼門、入母屋造。寛政10年(1798)に再建されたもの。
 ●国宝:本堂(薬師堂
 薬師三尊を安置するので薬師堂と呼ぶ。弘安9年(1286年)鎌倉幕府の北条貞時の建立とされる。よく焼けずに残ったものだと感心します。

 ●理慶尼の墓
 勝頼の乳母であって、武田氏の最後を見届けた理慶尼は、ここに眠っています。慶長16年(1611年)寂享82才。書き残した「武田勝頼滅亡記」は名文とされる。
 ●芭蕉翁甲斐塚
 「はまぐりの 生ける甲斐あれ 年の暮れ 芭蕉」 宝暦12年の建立で県内最古のもの。塚は国道のガケの方を向いて建っており、正面からの撮影は不可能だった。

 柏尾の交差点で、左折は国道で、旧道は右折して行く。。勝沼宿はもう少しであるが、帰りの関係で、石和は遠すぎるし、最寄の駅は勝沼ぶどうの郷駅だが、2km弱ある。中途半端だがぶどうの郷へ行くことにして、上行寺の碑がある所で本日は終わりとする。駅への途中「シャト-勝沼」があり、ワインの試飲ができ、巨峰ワインを買って帰宅した。本日の行程は16kmほどで短かったが、やっと笹子峠を越えました。

 34駒飼宿へ  36 勝沼宿へ