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8 大磯宿平塚から27丁 2.9 km程しかない。宿の作り方では短すぎるが江戸時代より以前に宿として栄えていたのだろうと思われます。1620年に、尾上本陣が出来、続いて小島本陣、石井本陣ができて、宿場としての体裁がととのいました。 美しい松並木がよく残り、曽我兄弟と虎御前の伝説があちこちの残っている。明治以後日本最初の海水浴場が指定されたりして、風光明媚な別荘地としても発展してきた。 本陣3 旅籠66 |
![]() 2007年1月8日、平塚宿よりの続き 11:10■三沢橋〜鴫立沢 ●大磯宿江戸方見附 化粧坂と国道1号線合流手前にある表示板があり、この場所に石垣が組まれ、本来は宿の防御施設で後には宿の境目を示すことになった。 国道1号線と合流しすこし行くと三沢橋がある、ここが【東海道分間延絵図】の三沢石橋の 場所である。橋の写真は撮らなかったが小さい橋でありました。大磯駅入り口付近はさすがに人も多く、海水浴発祥の地の看板もあったりし、すこし行くと左手の坂をちょっと下がった所にあるのが延台寺。手前角に曽我兄弟の兄を救った虎御石の看板がある。帰宅してから資料を見直すと、本陣跡碑が残っていたようですがすべて見逃してしまった。 ○ 尾上本陣:国道一号線沿い「中南信用金庫」敷地内に記念碑 ○ 石井本陣:国道一号線沿い大内館 ○ 小島本陣:国道一号線沿い「古伊勢屋」のとなりに記念碑 以上あったそうです。 |
![]() ![]() ●延台寺虎御前が、兄弟の菩提を弔うために法虎庵(ほうこあん)を結んだといわれ、寺としては、慶長四年(1599)身延山十九世、法雲院日道上人の創建。曽我兄弟の敵役、工藤祐経が兄の曽我十郎を返り討ちにしようとした折に、十郎の身代わりとなって矢や刀をうけたという虎御石を所蔵している。 ●法虎庵曽我堂と虎御石 曾我兄弟像や虎御石を安置する堂。開扉は5月の「虎御石まつり」のときだそうで、虎御石は赤い布で覆われています。 11:30 |
![]() ●大磯宿遊女の墓江戸時代宿場の飯盛女はいわゆる遊女であるが、亡くなった場合無縁墓地の葬られることが多いが、この寺の檀徒に縁のある遊女はここに葬られレた。 ●虎御前供養塔 この寺の日道上人が建てたもの。 |
![]() ●旧商屋「杵新」という和菓子屋さん ●湘南発祥の地碑 湘南という地名は、中国洞庭湖のほとり、湘江の南側に、この地が似ていたことからということが由来であるそう。 |
![]() ![]() ■鴫立沢〜城山公園●鴫立庵 道路から左側に少し降りて、沢に掛かった石橋渡ると門がある。案内板によると・・・寛文四年(1664年)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄八年(1695年)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。現在では、京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれています。崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたが、その標石に “著盡湘南清絶地” と刻まれていることから、湘南発祥の地として注目を浴びています。 こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立澤の 秋の夕暮れ (西行法師) 入場料100円を払い中を散策。●芭蕉句碑、湘南発祥碑、●五智如来像などが並び、著名俳人の句碑が立ち並んでいる。 11:55 |
![]() ●大磯宿上方見附この先はずっと松並木がよく残されている。ガストの所が上方見附で,宿はここで終わる。 ●大磯宿松並木 見附の先は1号線は下りの方が一段高くなっており、松並木も並んで、大変気持ちがいい道となっている。左側は海で「こゆるぎ浜」と呼ばれている。 |
![]() 松並木が途切れたあたりに明治の元勲 伊藤博文公邸跡の●滄浪閣。現在はプリンスホテルの持ち物で、結婚式場と中華料理の大磯滄浪閣という施設になっている。右脇に「伊藤公滄浪閣之舊蹟」の石碑があるが、入りやすくない雰囲気です。この先旧道は●右側に折れていく。その右側は城山公園という。12:30 |
![]() ■城山公園〜六所神社●城山公園 県立大磯城山公園といいます。この高台から縄文式土器や横穴墓などが発掘され、明治以降は三井財閥の別荘地であった。全国の有名な古寺社などの古材を用いて作られた「城山荘」などが点在していた。戦後三井からはなれ、平成2年から公園として開園された。展望台からの眺望は木に遮られてイマイチというところか。吉田茂の邸宅はこの公園の南側、海寄りにあり見られなかった。 |
![]() ●国府本郷一里塚分かれた旧道がまた1号線と合流する手前にある、17番目の記念碑。平成14年の東海道シンポジウム大磯宿大会記念に作られたもの。 ●国府祭(座問答石) 地名は国府新宿という名前になる。六所神社手間の交差点角にあった、不思議な石。・・・六所神社で毎年国府祭」が行われ神揃山で「座問答」という行事が行われる。これは大化の改新の折、相武(あいぶ)の国と磯長(しなが)の国が統合され相模国ができた。 両国の一宮である寒川神社と川匂とが国司の参拝の順序をめぐって争い、見かねた他の社の仲裁により「明年までに解決」という先送り方式による解決を図ったという故事に基づくもの。この石はこの座問答の様子を示し、相模国の成立を紹介するものと看板に書いてあるが、なぜ石がそうなのかよくわからぬ・・・・ 13:20 |
![]() ■六所神社〜二宮町●六所神社(相模総社) 総社というのは、毎年国司は国内の主要な神社に参拝する義務があるが、面倒なので国衙の近くに、すべてまとめた総社という神社をつくり、そこを参拝すればすべて参拝したことにするという便法のための神社をいう。 相模国国府の所在地は、大磯の国府、海老名市、平塚市など数説があり、又移転したのだという説もある。相模総社という六所神社は、崇神天皇の頃の創建とされていてかなり古い。養老2年(718年)閏4月8日、現在の地に相模国八郡の神祗の中心として宣下された。一之宮から四之宮までと、平塚八幡宮、それに柳田大明神の六社を合祀したことから国府六所宮と称されるようになった。 毎年5月5日に「国府祭」(こうのまちとよむ)が行われる。相模国の一之宮「寒川神社」(寒川町)、二之宮「川匂神社」(二宮町)、 三之宮「比々多神社」(伊勢原市)、四之宮「前鳥神社」(平塚市)、「平塚八幡宮」(平塚市)、「総社六所神社」(大磯町)の六大社から神輿が出て神揃山に集まる。 この時(座問答)という行事が行われる。 13:30 |
![]() ■二宮町〜国府津●吾妻神社 街道は塩梅橋を渡り、二宮町に入る。駅を越して梅沢から右へ入っていく。入り口に吾妻神社の鳥居が立っている。神社は六所神社と同様に東海道線の向こう側にある。ここは走水で入水した弟橘姫の遺品がこの海岸に流れ着き、それを祀った神社という。線路の向こう側へ行くと、公園になっており目の前には神明神社という小さな祠があるだけ。案内地図を見ると吾妻神社は山の上だというので登ろうかと思ったが、時間もなく、元気も出ずあきらめた。 梅沢は大磯、小田原間が4里と長く、その間の宿で昔の雰囲気をいくらか残している。また1号線と合流しその先、川匂神社の鳥居を見ていたら左側へ入る入り口を見逃してしまった。GPSにも入力してあったのだが、一里塚の碑も見逃し惜しかった。 14:15 |
![]() ●車坂碑東前川あたりの右手にある碑で、太田道灌、源実朝詠歌の記念碑です。太田道灌は車坂で夕立に出合ったとき詠んだもの。源実朝は洪水で渡河できないときに詠んだ歌。阿仏尼の歌もある。 大きな案内板 |
![]() ■国府津〜山王橋国府津駅を過ぎ、酒匂川を渡る手前に黒塀でお城風というか、武家屋敷風というか、変わった建物があり、お寺かとも思ったが、看板が掛かっており、●「社会福祉法人ゆりかご園」だそうだ。後で調べたがここは鎌倉時代の宿で酒匂宿といい、旧川辺本陣ということでした。 建物は昔のままなのかはよくわからなかった。歴史的建造物でもないので復元された建物かもしれない。 ●酒匂橋を渡る。 左側は工事中。ここは渡し場で広重の小田原の絵になっている。渡し場は橋の上流120mくらいの場所ということです。現代は橋を渡る。 16:20 |
![]() ●新田義貞首塚橋を渡り小田原東高校の前を通り、案内板があるので、表示に従い住宅の裏手へ行くとある。延元3年(1338)年義貞は越前藤島で戦死、その家臣の宇都宮泰藤は首を抱いて上州新田へ向かう途中病気になり、ついにこの地で首を埋め、自分は病死してしまったという。案内板 ●家臣のものと思われる小さな墓 ここは首だけだが、義貞の墓と言われるものは、水戸街道、若柴宿の金竜寺にもある。金竜寺には首なしの墓であるかどうかはよくわからない。この先山王神社や、小田原宿江戸方見附碑があり小田原宿の始まりであるが、暗くなって写真も撮れないので次回に訪れることする。次回はここから始め、いよいよ箱根越えとなります。 16:40 |
| 7平塚宿 | 9小田原宿 |