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 52 草津宿から大津宿   歩行地図
 草津1丁目-矢倉-野路-月輪-大江-瀬田の唐橋-石山駅-中の庄-打出浜-京町 14.5km

52 草津宿
 草津宿は歴史が古く、平安時代から東海道と東山道、中山道との分岐点として栄えた。鎌倉時代以降も交通の要衡として重要で、今でも草津宿本陣が公開され貴重な資料が残されています。宿の名物は「姥が餅」が有名で、広重の「草津宿」はその「姥が餅屋」が描かれている。
本陣2 脇本陣2 旅籠72

2009年1月11日石部宿からの続き。 12:05
■草津川橋~追分
 草津川(当時は砂川)を渡ってくると左手に●常夜燈がある。草津宿江戸方の入口に建つ燈で、案内には「火袋付案内道標」と書いてある。高さは4m程もあるもので、日野の豪商中井氏の寄進により、文化13年(1816)に建てられた。「左 東海道いせ道 、右 金勝寺志がらき道」と彫ってある。燈の脇を行くと古い家がかすかに残っている。突き当ると●中山道との追分に到着する。

★追分
 追分に着いて右を見ると、草津川をくぐるトンネルがある。草津川は天井川で、江戸時代はよく出水して、宿は何度も水浸しになっている。その後明治17年に川の下をくぐるトンネルが作られた。追分の角にも●常夜燈があり、案内板などがまとめられている。この常夜燈は京方から来た場合の表示で、ここも文化13年の建立になる。道の対面には●高札場があった。これはミニチュア版で小さい。草津川に上がってみた。現在は水は流れていない。2002年、新草津川が開削されたため、天井川を成していた旧河道は廃川となったようです。  12:15

■追分~立木神社
★草津宿本陣
 右側に、田中本陣が資料館として公開され残っている。田中本陣は、敷地1300坪、建坪468坪、部屋数30余もあり、国の指定史跡に指定されている。大名の宿札、大福帳、吉良上野介や浅野内匠頭、近藤勇、などの名前も宿帳に残っている。内部写真禁止なので撮らなかったけれど、この先の街道資料館で色々参考資料を見ることが出来る。中でも旅籠で出された食事や、和宮が本陣に休憩した際に出された、昼食の献立が再現されていたのに興味を持った。献立写真

 左手の観光物産館が脇本陣だったそうだけど、単なるお店と思いざっと見て通り過ぎてしまった。その先は、アーケードのある●本西商店街になる。アーケードは四日市宿以来、水口宿のアーケードはなくなってしまった。入口の左手に街道交流館がある。
 ●太田酒造は、江戸城を築城した、太田道灌に繋がるそうで「道灌」という酒も造っていた。また草津宿の問屋場も兼ね、「貫目改所」も置かれ、太田家を中心とするこの一帯は「草津政所」と呼ばれていたとのこと。  13:10

■立木神社~野路交差点
 商店街が終り、交差点を通過すると、角に●立木神社がある。草津宿の鎮守で祭神は武甕槌命。神護慶雲元年(767)の創建というから古い。社名は、常陸国、鹿島明神がこの地に一本の柿の木を植えたことに由来するとのこと。その縁で狛犬は鹿が使われている。またここには延宝8年の、県内最古という「石造道標」が移築されている。
 神社を出ると草津宿も終りになって、新草津川に架かる「矢倉橋」を渡る。古い家が残る●静かな旧道を進む     13:50

 しばらく行くと右側に珍しい瓢箪(ひょうたん)を扱う●瓢泉堂がある。実はこの店は草津宿名物の「姥が餅」を売る店の跡である。姥が餅屋は明治になって国道の方へ移転している。ここは 東海道と矢橋街道の追分で、店の角には、「右やはせ道、これより廿五丁」と刻まれた矢橋道標が建っている。東海道はここから陸路を進む本道と、矢橋から琵琶湖を船で渡り、大津に出る道の二通りあった。 本道の方は500mほど進むと●「野地」の交差点に着く。 この野地付近は古来より和歌などにも詠まれてきた景勝地としても有名なだったというが、もちろん今ではそんな風情は残ってもいない。

■野路交差点~弁天池
 交差点の向うに「一里塚」の看板が立っていて、ぐるっと回っていくと、●「一里塚公園」がある。交差点からさらに800mほど歩くと、今度は●「野地の玉川」跡が見えてくる。案内を読むと・・・野路」は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅として栄えた所である。都から公卿・貴族・詩人等、しばしばこの地を訪ね景勝をめでて多くの詩歌を咏んだ。中でも千載集所載の
 源俊頼の作
   「あすもこん 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やどりけり」   が有名・・・・・
 とある。荒れ果てていたが、近年小公園として整備された。  14:00

■弁天池~月輪寺
 玉川跡を過ぎると旧道は大きく右に曲がっていて、右手に大きな池が現れる。この池は●「弁天池」と呼ばれていて、池の中ほどに弁天島があり、江戸時代の大盗賊、日本左衛門が逃げ隠れしていたとの伝説が残っている  弁天池を越えると小さな「狼川」を渡るが、ここから先の旧道には昔ながらの細い道が今もそのままに見られる。 特に黒鉛工業前には少しばかりの●「松並木」が残っていた。瀬田に近づいてきて、昨日泊ったホテルが見える

■月輪寺~大江
 やがて左手に「月輪寺」と呼ばれているお寺が見えてくる。月輪寺入口には●「明治天皇御東遷駐輦之所」などたくさんの石碑や道標があるが、ここは明治天皇や14代将軍家茂が休まれた記録も残っていて、かなり格式の高かった寺だったという。
 左手の月輪池の傍らに「東海道立場跡」、の石碑が立つ。このあたり、下月輪池、山ノ神池などの池が沢山集っていて、「一里山」と呼ばれる。名前のとおり、現在の一里山2丁目交差点に●一里塚が立っていた。 14:45

■大江~瀬田南小前
 大江4丁目を過ぎると、なぜかほぼ真っ直ぐ進み、直角に2度ほど曲って進んでいる。大江地区のすぐ南側の「三大寺」という所は奈良時代の「近江国国府」があった所で、直角に曲っているのもそんな事に原因があるのかもしれない。ここの道は案内表示もなく、住宅地内なのでわかりにくく、GPSを見ながら歩いた。
  浄光寺の前のゆるい坂を上がって行き、左へカ-ブしていくと●大きな道路にぶつかる。ここを左折する。

■瀬田南小前~建部大社
 左折して、しばらく歩くと大きな丁字路の交差点に出る。ここを左折すれば●「近江国一之宮の建部大社」がある。延喜式内大社であり、日本武尊を祀る。創建は景行天皇の御代にさかのぼり、景行天皇46年(113?、316?)景行天皇の皇子である日本武尊を建部大神として祀ったのが始まりとされる。神門●拝殿、本殿共歴史を感じさせるような檜皮葺きの堂々とした建物だった。15:30

■建部大社~瀬田の唐橋
 神社を出て、県道を行くとお待ちかねの●瀬田の唐橋に着いた。渡る前に橋の手前を左に入っていくと「瀬田の唐橋」の石碑があり、その裏には、俵藤太(藤原秀郷)が三上山に住む大百足を弓で退治したという伝説が描かれている看板が立っている。いよいよ橋を渡るけど、欄干の脇に、歌碑やら石碑が立つ。「唐橋」と呼ばれているのは、擬宝珠を備えたデザインが「唐風」だったからと言われている。 この橋は京都の防衛上重要な場所にあったので、「瀬田の橋を征する者は天下を征する」とまでいわれ、何度も戦火に巻込まれた。 15:50

■瀬田の唐橋~晴嵐
 唐橋を渡り、京阪電車の踏切りを横断し、その先の「鳥居川交差点」を右折するが、 左手の●黒塀の家の前に「明治天皇小休所」の碑がある。本日は日も落ちてきたのでこの先の「JR石山駅」から京都駅へ出て、「京都第一ホテル」に宿を取った。16:10
2009年1月12日
  京都から石山駅へ来て、再開します。本日は三条大橋まで、ようやく東海道も終点に来ました。駅を出ると左側に●NECの工場が続きます。瀬田から来る旧道はJRのガードをくぐるという説と、石山駅方向へ曲って駅を越え、NECの中を通過しているという説とあるようで、一応駅を越える道を歩いてみました。 8:15 

晴嵐~中ノ庄
 「晴嵐」交差点を過ぎると、まもなく膳所城下の入口になっていた南惣門があって、今は●「南惣門跡碑」住宅の脇にちょこんと立っている。この先の民家には、「ばったん」と呼ばれる、折りたたみ式の縁台を備えた家があった。これから先は「膳所城」の城下町であり、右に左に七曲りのように曲っていくことになる。
 京阪電車の踏切りを渡るが、右手に見える●「若宮神社」は仁徳天皇が祭神であり、ここの入口門は当時膳所城にあった城門を移築した物が使われているという。

■中ノ庄~膳所公園
 「中庄」、●「本丸町」と何回か直角に曲って行く。この通りには今も古い家が残っていて、いかにも城下町という風情が感じられる。ローソンがある交差点に出て、左折した所には膳所の鎮守だった●「膳所神社」がある。ここの門もやはり昔の膳所城の城門を移築した物が使われている。膳所城は明治になって廃城になったが、城門などはあちこちの神社に移築されている。

■膳所公園~義仲寺
 交差点を右折して行くと、右手に城郭を持ったおかしな建物があったが、なにかと思ったら「市民センター」だった。琵琶湖畔に出ると、そこは膳所城が建っていた場所で現在は●「膳所城跡公園」になっている。「膳所城」は天守閣や石垣、白壁の塀など琵琶湖に浮かぶ大変美しい城であったという。街道に戻り進むと、●和田神社がある。檜皮葺の本殿は重文で鎌倉時代の様式をよく表し、表門も膳所藩の藩校、遵義堂(じゅんぎどう)の門を移築した物。左折した先の響忍寺の山門は膳所藩の武家屋敷の長屋門を移設したもの。西の庄の「石坐神社」の本殿は鎌倉時代の社殿として貴重で県指定文化財。桃源寺、法傳寺を見て、その先、カギの手になっている右手に「膳所城北総門跡碑を見て過ぎて行く。  9:35

■義仲寺~大津京町
 馬場1丁目西に●義仲寺がある。寺名は木曽(源)義仲を●葬った塚があることにちなむ。義仲は、源頼朝軍に追われ、今井兼平とともに粟津が原で戦死した。義仲の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことに始ると伝えられる。またどういうわけか、松尾芭蕉が義仲に傾倒し、遺言により境内に葬られ墓もある。境内は狭いが、多くの芭蕉の句碑、「巴御膳の塚」などがある。9:50

 義仲寺を出て、大津警察署の裏を通り、京阪線の踏切を渡ると、左手に●平野神社がある。この神社は変ってるというか、あまり聞いたことがない「蹴鞠の神様」である「精大明神」を祭神にしているという。「蹴鞠」にも神様がいるとは知らなかった。創建は天智天皇が「近江京」に遷都した668年頃にさかのぼり、藤原鎌足の創建になるのだそうだ。平野神社を出ればまもなく京町4丁目あたりから●大津の宿に入る。 10:00

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