29浜松宿から舞阪宿へ  歩行地図
 馬入−連尺−菅原町−若林−高塚−篠原−舞阪    12.1km
29浜松宿
 浜松宿は徳川家康が築城した浜松城の城下町であり、東海道最大規模の宿として栄えた。歴史としては古く、昔は「引馬宿」ともいい、十六夜日記(1280年代)に見えている。城は家康以後も水野忠邦をはじめ老中などに出世する者を出し、出世城と言われた。浜松の名の起こりについては、永享四年(1432)、「足利義教公」がこの地で酒宴を催した時、「はま松の音はざざんざ」と歌を詠まれたのが始まりだという。近代浜松は東京、大阪の中間にあって、工業都市として発展したが、そのため戦時中、激しい空襲に会い、徹底的に破壊されてしまった。
 本陣 6 脇本陣 0 旅籠 94

 2008年6月7日、朝9時30分浜松駅にやってきました。前回は12月1日であったので、半年が経過してしまいました。しかし、その間日光街道、甲州街道を終わらせることができた。浜松までともなると日帰りは無理で、かといって泊まりがけの旅も中々できなくて、間が開いてしまった。
■浜松駅〜連尺町
 駅へ降りると、●アクトタワーがそびえている。前回は強烈な西日で撮影困難だったけど、今回はきれいに撮れた。地上45階、高さ212.77mの超高層ビルで「オークラアクトシティホテル浜松」があり、人と環境の融和への配慮が随所に生かされた魅力的な都市空間となっております。というのが謳い文句。駅から北へ向かいます。天気は梅雨に入ったものの薄曇といったところで日焼けしないので良い。

 宿は●馬込橋から板屋町、ゆりの木商店街」と呼ばれている、商店街から連尺町で南下して伝馬町、旅篭町、菅原町と続く。宿の中心は伝馬町、旅籠町あたりであったという。
 連尺町の交差点から右折して、浜松城に向かった。交差点はほとんど地下道になっていて、バリヤフリーの世の中に逆行している。工業都市として発展したからだろうか。
10:10

●浜松城
 当時の面影を残す野面(のづら)積みの石垣の先に浜松城の天守閣が出現する。 (明治6年廃城となり、石垣だけが残ったが天守閣が再建された)。上って見たが、ちょっと高さが足りず、ビルに囲まれ、眺望絶景とは言い難かった。場内に宿案内図が掲示されていた。連尺町に戻り南下する。
●高札場跡
 「たにしま屋」書店前にある。本陣跡とかには、この形式の看板が立っている。10:50

■連尺町〜菅原町
●佐藤本陣跡
 浜松は、とても規模の大きい宿場で本陣は6ヶ所もありました。6ヶ所あったのは浜松と箱根のみ。外に杉浦本陣川口本陣跡などもある。6軒とも戦災で消失してしまった。
●梅屋本陣跡
 伝馬町角にあり、江戸初期から本陣を勤める。賀茂真淵(1697〜1769)の養家先でもあった。

●五社神社
 街道の西側、右折する奥にある神社。諏訪神社を合祀する。かなり規模の大きい神社であった。家康が2代将軍秀忠の誕生を祈願し、浜松城内にあった五社神社を産神として、現在地に遷座した。元々は太玉命を祀る神社であったものに、春日大社の祭神四柱を勧請して、現在の五柱となったものと見られている。●本殿は家康らしい派手な極彩色の造りでした。11:00

 成子交差点角に、浜松名物●「浜納豆」を売る店がある。「浜納豆」とは乾燥している納豆で、ネバネバしておらず、塩味が効いて、お茶漬にするとうまいという話だ。
 成子を右折して、すぐ菅原町を左折する。左角に数体の石仏が並んで祀られている。●「子育て地蔵」という。子宝に恵まれない町民が願を掛けたら授かったというので「子育て地蔵」
 11:22

■菅原町〜若林
 新幹線のガードを抜けると●八丁畷(はっちょうなわて)と呼ばれる、まっすぐな道が八丁(約800m)程続く。松並木が続く美しい所だったのだそうだ。「八丁畷」というの川崎宿を出た先にもあった。
●鎧塚跡の碑
 平安時代末期、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の兵は辺り一帯の田に水をはり、鎧を着てこの橋の守りを固めて戦ったところから鎧橋の名がついた。この先の左側に一里塚跡碑が立っている。   11:45

■若林から高塚
●二つ御堂
 東若林の信号を越えると両側に建っている。奥州平泉の藤原秀衡が京都で大病と聞いた愛妾が京へ上る途中、ここで秀衡死去の誤報を聞き、その菩提を弔うために●阿弥陀堂を建立。一方、京の秀衡は病が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝を込めて向側の●薬師堂を建てたと言われています。
11:55

 二つ御堂を出た東海道は西に伸びるまっすぐな一本道で、 所々に松並木跡らしく、松が生えている。左側奥には松並木が続いて、その又奥は遠州灘。 右手にある●「諏訪神社」や「熊野神社」などを越えて行くと
 自動車用品店の、駐車場の角に昔の●「領界石」がある。当時はこの領界石がある所までが「浜松領」で、領界石を越えれば「堀江領」だった。従是東浜松領」と刻まれているが、説明板は植え込みに遮られて全く見えなかった。12:35

●音羽の松
 領界石を越えると現在は「高塚」と呼ばれている場所に変わる。この高塚から左手に入って行った、可美図書館の先の「六所神社」入口に「音羽の松」というのがある。浜松の名前の起源となった、「ざざんざ松」の弟分に当たる巨木だったという。現在は残念ながら、すでに枯れてしまい、新しい松に植え変えられて、「記念碑」が建てられているだけ。街道に戻り、●高塚西で国道と分かれて篠原立場へ入る。

■篠原〜舞阪
 国道を右に行った所は篠原立場といって、茶屋があった場所。現在ではバス停の名前くらいしか残っていない。左手の旧家は説明はないが「立場本陣跡」らしい
●神明宮
 立場に入って、右手にある。すっきりとした、拝殿、本殿とも神明造りの社殿で好ましい。昭和に入ってからの建物。13:40

 さて、このあたりの●秋葉常夜燈は袋井宿で見たような屋形に入っているものが多い。しめ縄が張ってあるのもある。
●稲荷神社
 坪井町に入って右手。ここの鳥居は両部形式で、朱色に塗られ、四本の稚児柱と呼ばれる控柱で支えられている。うしろの稲荷鳥居は石造りで文化十三年丙子年(1816)十一月吉日 遠州屋傳兵衛奉献 江戸小船町傳次郎と刻まれている。

●「史跡引佐山大悲院観音堂聖跡
 稲荷神社の先、右側に、かってここに馬郡観音堂が建っていて、安置されていた観音像は定朝作と伝わる。戦後に廃堂になり、観音像は近くの如意寺に移されているという。
●春日神社
 右手に「東本徳寺」「西本徳寺」と二つ並んでいる寺を越えると、やがて交差点の右角に、「春日神社」が見えてくる。奈良の春日神社から勧請されたものらしく、真っ赤な社殿である。14:45

 春日神社境内には普通の神社にあるような「狛犬」はなく、春 日神の使いである、雌雄二頭の「白鹿」が立っている。このような形は始めて見るもので、狛犬というか、狛鹿というべきか・・・・・中山道、浦和宿の調神社には「狛うさぎ」がいたし、水戸街道には狛亀とかもいたけど、ここには狛鹿もいた。
 

●「舞阪の松並木」
 春日神社を出ると、前方にはとても見事な松並木が見えてくる。 ここは「舞坂の松並木」と呼ばれていて、約700メートルの両側におよそ340本ほどの松が残っているそうだ。右手には干支で時刻を表す石像が続き、左手には東海道五十三次の銅板が続く。ここを過ぎると次の舞阪宿に入って行く。

14:50

28見付宿  30舞阪宿