47 関宿から坂之下宿   歩行地図
 東の追分-関町中町-地蔵院-西の追分-市瀬-筆捨山-沓掛-坂下  6.8km
47 関宿
 古代からの交通の要衝で、奈良時代に「鈴鹿の関」が置かれ、関宿の名前も「鈴鹿の関」に由来している。江戸時代、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐することもあり、旅人で大いに賑わった。古い町並みがよく保存されていて、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

本陣 2 脇本陣2 旅籠42

 2008年11月10日亀山宿よりの続き
■関宿東の追分~ご馳走場
 関宿入口は「小万のもたれ松」から少し歩いた「東の追分」で、ここは伊勢への分岐点で、西からやって来た旅人は東の追分から伊勢道へ入って行った。ここには●「伊勢神宮一の鳥居」と●「常夜燈」が残っていて、「一里塚跡碑」や伊勢への道標も見られる。15:35

 ●関宿の町並。重要伝統的建造物群保存地区に指定されていて、昔のままの道幅の道の両側にずらりと古い町屋が並び、電柱も撤去され、きょろきょろと目移りして、どこを見ても興味深い。しかし1時間ほどで暗くなるようなので、駆足にならざるを得なかった。しかしこんな細い道にも車が平気で進入してきた。地元の車ならいざしらず、観光の車は通るべきではない。。。と思います。最初の右手にあるのは●「岩間家」で「東の追分」で稼ぐ人足や車夫の定宿であった所。築200年以上で「むくり屋根」が特長とされる。

■ご馳走場~玉屋歴史資料館
 宿内を進んで行くと、両側は旧家ばかりが並んでいて、写真を撮っていてもきりがない。そんな中で最も特徴的なのが、左手に建つ●「浅原家」です。二階の壁はしっくい壁の塗籠(ぬりごめ)造で、窓は虫籠(むしこ)窓という。縁側に「ばったり」と呼ばれる上げ下げ式の棚がある。右手には●「御馳走場」跡がある。 御馳走場とは宿役人や宿の亭主が衣服を整えて大名行列を見送ったり、出迎えたりする時に使われた場所のことをいう。

 宿内の銀行の●「第百五銀行」だけれど、保存地区に配慮してか、塗り込造の町屋風な造になっている。掛川の信用金庫も城郭風な造りになっていたのを思い出します。次は●「岩木屋」。明治17年の建築で、明治から大正時代にかけて酒造業及び味噌醤油醸造業を営む。二階は塗籠で、座敷前に連子格子を付けた典型的な明治時代の商家の構えです・・・。岩木屋の斜め前に「川北本陣跡碑」が立つ。ここは碑のみだけ。 15:55

 ■玉屋歴史資料館~地蔵院
 無料の休憩所の●眺関亭へ入り、2階の屋根の間から関宿の家並みを一望することが出来る。といっても道が細すぎ、屋根が迫りすぎて、眺望はあまり良くはない。
 右手にあるのが、関宿を代表する大旅籠だった。「玉屋」で現在は●「関宿旅籠玉屋歴史資料館」として公開されている。慶應元年(1865)建築の木造二階建。塗籠形式で宝珠を形取った虫籠窓が印象的に残る。「玉屋」の向かいが銘菓「関の戸」で有名な「深川屋」がある。屋根から突出た、庵看板が特徴的

 右へ入った所に●福蔵寺がある。山門手前左に「町指定史跡 関の小万の墓」の石碑が立つ。 境内の右手に●「関の小万の墓」がある。・・・・関の小万は、女性の身でありながら亡き母の遺志を継ぎ、父の敵討ちをした仇討烈女として名高い。関地蔵院前にあった旅籠山田屋(現会津屋)の養女となっていた小万は、亀山藩の道場で武芸を磨き、天明三年(1783)亀山城大手前付近で無事本懐を遂げる事ができた。・・・

 ●鍛冶屋
 江戸より12代目の看板が下がる、鍛冶屋さん。資料には山林伐採用の刃物や鋤鍬などの農具の鍛冶屋を営むとあるが、本日は休業中らしい。
●「川音」(尾崎家)
 お隣の建物。お米屋で、鈴鹿川の水で米をつく、水車の音から屋号を取って「川音」とした。文久頃の建物という。16:10

 ■地蔵院~西の追分
 地蔵院までやって来ました。関宿のほぼ中央に位置し、境内の●本堂●鐘楼、愛染道の3棟の建物は国の重要文化財に指定されています。天平13年(741)、「行基」によって創建されたと伝えられる古刹で、本尊地蔵菩薩座像は、わが国最古の地蔵菩薩と言われています

 地藏院前には山菜おこわと街道そばの店●「会津屋」がある。元々関宿では鶴屋、玉屋とともに有数の大旅籠で、親の仇を討った「お万」は「会津屋」の前身の「山田屋」で育った。お隣の●洋館屋 好見家は、江戸末の建築で、洋館への改造は、大正初期に行われた。西側二階はレンガ造りを模した漆喰の塗籠で、三連のアーチ窓をもつ。

 地蔵院を出ると、西の追分へ向かう。 途中には嘉永年間建築の「田中家」などの旧家が続いている。しばらく歩くと右手に●「観音院」と呼ばれる寺が見られる。説明によると、関宿の「守り仏」で、嵯峨天皇の時代(820に開創された寺だという。(お堂は江戸時代のもの)。右手の古い建物は、屋号●「南禅寺」という、井口家。西追分のこの場所にあって、豆腐料理を名物とする料亭だった。建物は、文久の頃といわれ、連子格子に塗籠の二階が料亭の面影をよく残している。16:30

■西の追分~市瀬
 観音院を越えると先は●下り坂になっていて、関宿の出口になっていた、●「西の追分」が見えてくる。西の追分も昔はとても賑わった場所だったというが、今は静かでその面影は見られない。ここは大和街道との追分けで、大和街道は加太峠を越えて大和、奈良方面へ出て行く。角に道標を兼ねた大きな髭題目碑が立つ。
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ここで本日の行程を終りとして、宿は右手の山を10分ほど、上がっていった、市営「関ロッジ」に泊りました。翌日の予定を考えると、先の坂下位まで行きたいところだけど、坂下-関駅間のバスが廃しされて、ここで泊るしかない。「関ロッジ」は二食付で6700円程度で非常に手頃。朝7時に出発する為、食事も早く出してくれました。http://www.city.kameyama.mie.jp/seki-lodge/  17:00

2008年11月11日関宿からの続き
 本日は水口に3時頃には着きたい為、「関ロッジ」を7時に出た。いよいよ鈴鹿峠を越える。途中食べる所がないと思うので、朝食をたっぷり食べといた。
 トラックがバンバン通過する国道をしばらく行き、市瀬先で国道を右折する。鈴鹿川にかかる●「いちせ橋」を渡り、しずかな市瀬の集落を通過して行く。国道を渡りしばらく行くと、右手に「筆捨山」の入口を示す細い道があって、案内板が立っている。この奥に見えるのが有名な●「筆捨山」だ。狩野元信が描こうとして描ききれなかった「奇岩」が露出していることで有名な山だが、そんなには奇岩が見えなかったが、昔とは姿が違うのかも。   7:40

 ■市瀬~沓掛
 国道は先で大きく左へ曲っていて,曲り終えた当りに、一里塚があるというので、探してみたが、わからなかった。そして旧道は右手に入っていく。右折して行った先は●「沓掛」と呼ばれていた集落で、静かというか、寂れているというか●古い家が並んでいる。この付近は交通の便があまりにも悪く、このような形で古い家が残っているのだそうだ。ここを通るバスも関駅へは午前中だけしかなく、午後にここにきてしまうと駅に戻ることができない。8:00

■沓掛~坂下
 「沓掛」集落をしばらく歩くき、「坂下防災センター」手前で 右折すると、旧道沿いに●「東海道五十三次の木柱」が並んでいて、左手には立派な●「馬子唄会館」が作られている。しかしドーム型のスタイルと馬子唄とマッチしないと思うけど、どうだろう。中に宿の資料が展示されているようだけど、ひっそりとしており、開館前らしく、通過することにした。8:10

 会館を出ると、やや広くなった道路に変わるが、ここに残っている旧道部分は今の国道が開通するまで幹線道路として使われていたそうだ。やがて●「河原谷橋」に出るが、昔はこの橋を渡れば「坂下宿」だったというので、関宿編はここで終り、次の坂下宿へ譲るとしたい。
8:25

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