20丸子宿から岡部宿へ  歩行地図
 佐渡−バスセンター−丁子屋−赤目ヶ谷−宇津ノ谷−横添−岡部  8.5km 
20丸子宿
 昔は鞠子とも言った丸子は、安部川と赤目谷の間にできた宿で、東海道の宿駅の中でも比較的小さいが、その歴史は古く、安倍川の対岸の手越には鎌倉時代の宿場がおかれたとも伝えられている。この宿は膝栗毛や芭蕉の句でとろろ汁が有名になった。現在でも営業している店がある。
本陣1、脇本陣2、旅籠屋24

 2007年11月30日の続き
■安倍川〜手越
 安倍川の対岸は「手越」と呼ばれている。その先佐渡で1号線と合流する。そこを左折して行く。右手に古い「地蔵堂」が残っていて、左手佐渡公民館前公民館前には「佐渡の手児万葉の碑」があり、ここは万葉の時代から、栄えていた場所だった。

■手越〜長田西小
 バス折り返し所を過ぎて、左手の「長田西小学校」には、松並木の名残の松がかろうじて残っている、小学校斜め向かい側歩道には半分地面に埋まった古そうな石碑石碑が丸子の一里塚跡碑である。
 道幅が狭くなった旧道に入ると左手に大きな「楠木」が残っている「水神社」がある。神社は全く新しい。この少し手前が丸子宿の東方見付跡で、説明板が設置してある。    10:00

■長田西小〜丸子橋
●丸子宿の町並み

  水神社を越えると道の左右に古い家並みが見られるようになる。、本陣跡碑は立っているが建物は新しい。脇本陣跡碑や格子戸の残る家、奥行きの深い家などが当時の面影を感じさせる。この付近に旅籠屋も軒を並べていた。この辺りの建物の玄関には昔の屋号の看板が掛けられている。中山道の坂本宿と同じように昔の雰囲気を残そうとしているのだろう。

●丁子屋   10:15
 宿の外れには、丸子宿を一躍有名にした「とろろ汁」の「丁子屋」の建物がある。広重の丸子の画そのままといった風情を残す。創業はなんと慶長元年(1596)だそうだ。ただし現在の建物は古民家を移築したものだそうで、当時の民家ではない。店の前には芭蕉の「梅わかな丸子の宿のとろろ汁」の句碑と十返舎一九の東海道中膝栗毛の碑がある。残念ながら開店が11時で開いておらず、寄ることはできずじまい。

●細川幽斎の歌碑
 この先丸子橋で丸子川を渡るが、橋の前、すぐ左手に天正18年(1590)秀吉の小田原攻めの先陣として丸子川を渡った、細川幽斎の詠んだ歌碑がある。
●高札場跡?
  丸子橋を渡った右手に丸子宿高札の複製がある。本物は昭和56年頃津島神社で発見されたそうだ。説明板デプリカって書いてある。(^。^)

 ■丸子橋〜赤目ヶ谷
 丸子橋を渡ると、丸子も宿も終わる。国道の裏道になっているせいか人通りもほとんどない。旧道の集落は「赤目ヶ谷」と呼ばれていて、少しばかり古い家も見られる。 赤目ヶ谷公民館を過ぎると左手に長源寺(起樹天満宮)入口があって、その先で再び国道に出るがすぐ又左の旧道へ入る。旧道の途中に●丸子紅茶という看板が掛かっている。日本の紅茶発祥の地ということだが,こんな所にこんなものがあるとは。最も紅茶も煎茶も根は同じだけど。

赤目ヶ谷〜宇津ノ谷トンネル
●宇津ノ谷トンネル
  11:00
 やがて旧道は国道と一緒になって、宇津ノ谷トンネル手前に出る。トンネル手前から左手に続く茶畑の中を通っている道が昔の●「蔦の細道」。蔦の細道は「伊勢物語」にも登場するように、古くから使われていた道で、秀吉が小田原攻めで大軍を通す時、新しく道が切り開かれ、そっちの道の方が正式の東海道道となった。東海道はトンネル手前の歩道橋の右側から入るようになっている。

 宇津ノ谷トンネル〜宇津ノ谷峠
●宇津ノ谷集落
  11:20
 旧道は、この先トンネルの手前を右手に入って行く。その先の●二股を旧東海道の案内標識に従って左に行くと静かな集落が続く。車の騒音は全く聞こえない。舗装などもひなびた家並みの風情と調和し独特の雰囲気がある。 宇津ノ谷の古い家には昔の屋号がつけられており、右手には太閤秀吉より「お羽織」を授かったことで有名なお羽織屋さんも見えてくる。

●明治のトンネル  11:30
 ここ宇津ノ谷峠には各時代のトンネルが集中している。先の国道の下り線は平成の建設。上りは昭和の時代。昭和初期のトンネルは東の方向、県道に通じている。集落の石段の先の曲がりくねった道を登ると左手に●明治のトンネル入口がある。峠が通行困難だったので、明治期に掘られた。レンガ造りで登録有形文化財だけど歩くにはちと気味悪し。
●宇津ノ谷峠登口
 石段の所まで戻って反対側へ行くと、峠の登り口がある。これから難所のひとつ宇津ノ谷峠を登る。

■宇津ノ谷峠〜坂下
●宇津ノ谷峠道  11:35
 
峠は人が通らなくなって荒れ果てていたのを丸子の長田西小学校のPTAの方々や宇津ノ谷町会の人々によって整備され、通れるようになったそうで、おかげでそう困難でもなく、快適に登れた。途中に「地蔵堂」跡がある。歌舞伎「蔦紅葉宇都谷峠」の文弥殺しの舞台でもあるそうだが、筋はよくわからない。「地蔵堂」は明治に入って壊されてしまったから、今では「礎石」がわずかに見られる程度。途中にある「髭題目碑」はこの辺の地方には珍しいものだという。

 頂上を越えればあとは下るだけだ。少し歩くとすぐに舗装された道路に出る。標識に従い降りていく。
 右手石段の上に●坂下地蔵堂がある。鼻取地蔵とも呼ばれる。・・農夫が牛をひいて田からの帰り、急に牛が動かなくなった時、地蔵が子供に化身して牛の鼻を引いて動かしたとの伝説による。・・この裏に大きな●「蘿径記」(らけいき)碑がある。文政13年(1830)駿府の代官羽倉簡堂が建てた。伊勢物語を通して、蔦の細道をたたえたもの。峠の途中にあったものをここに移設した。やがて旧道は国道と合流する。 11:50

 ■坂下〜岡部
 国道のこの信号から右手に残っている旧道に出る為歩道橋を渡ることにする。 旧道に入るとやがて●「横添」と呼ばれている集落に出る。所々松並木も残り、工場などもあるが旧道らしい雰囲気も残る。途中右手に十石坂観音堂がある。国道は左にカーブして行くが、東海道は真っ直ぐ進んで左に折れる。途中の右手に笠懸松と西住墓入口」の看板が出ている。

●笠懸の松  12:30
 看板には右手の山道を登った所に「西行の笠懸松」と呼ばれていた松があったことが書いてある。・・・西住は、西行の弟子で、共に東に向かって旅をしていた。天竜川を渡るとき西行に乱暴を働いた者をこらしめた西住を西行は叱りつけ一人で東へ向かった。西住は悲しみながら旅を続けたが岡部で病に倒れ西行からもらった笠に「西へ行く雨夜の月やあみだ笠影を岡部の松に残して」の時世の句を書いて亡くなってしまった。西行がのちにここを通り西住の死んだことを知って悲しんだという。・・・松は枯れてしまったようだし、峠を越えてきた身には又山道はしんどく、看板の写真で偲ぼうと思う。そしてすぐ先は岡部宿の入り口である。

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