50 水口宿から石部宿   歩行地図
 水口元町−水口石橋−城内−北脇−泉−横田の渡し−三雲−吉永−石部東  12.9q
50 水口宿
 水口は都から伊勢に通じる街道上の要地として早くから開け、慶長6年(1601)には東海道の宿駅に指定された。規模は近江の東海道五宿のうち大津に次ぐものでした。 寛永11年(1634)徳川家光の上洛時の宿館として水口城が築かれ、さらに天和2年(1682)に水口藩が成立し、水口は甲賀地域の中心地としての地位を固めることになった。
本陣 1 脇本陣 1 旅籠 41

2009年1月10日 8時52分水口石橋駅着
■水口秋葉〜元町
 東京から夜行バスで京都へ。草津へ出て、草津線で貴生川駅に。ここまで横なぐりの雪。近江鉄道に乗り換えで、水口石橋駅へ到着。着いて歩き始めたら晴れてきた。しかし今日は雪が降ったり、晴れたりで歩きの効率が上がらない。前回水口は通過状態だったので、●水口宿東見附まで戻ることにした。元町交差点脇に●速玉神社がある

■元町〜京町
 ●本陣跡
 元町交差点を渡って宿内へ入って行く。本陣は残っていないが、左手の竹垣を入った奥に、明治天皇聖蹟碑が建つ。ここに本陣があった。本陣は普通の家の3倍の大きさがあった。明治2年に明治天皇が宿泊されたのを最後に歴史を閉じている。その先は、二股に分れて真ん中は●高札場跡になっており復元された高札が掛けられている。旧道は左の道を行く。  9:30

■京町〜本町
●水口宿の町並み
 東見附からまっすぐ来て、高札場から3本の道が通っているのが水口宿の最大の特色で、旧道は真ん中の道となっている。石橋駅まで続く旧道には古い家がかなり残っている。「御菓子処一味屋」の向かいの家の前に、問屋場跡の標石があった その先の右手に白塀があり「バスセンター」であった。角に●「水口の曳山のからくり時計」がある。水口の曳山は有名で、江戸時代中期の享保年間この町に住む町民の力によって創り出された祭礼で、町の繁栄と町民の心意気を示すものですと案内にある。  

 センターを右折して、●大岡寺に向かう。石段を上ると、二階堂造の本堂が、山を背にして古寺らしい姿を見せている。今日は雪も少しばかりかぶっていて感じが良い。寺には、鴨長明や一条兼良も宿泊したといわれ、境内には松尾芭蕉が、「野ざらし紀行」の中で 「いのちふたつ中に活たるさくらかな」 と詠んだ句碑も建てられている。近くの「水口小学校」の敷地には●「旧水口図書館」が建つ。昭和3年建築 ヴォーリズの設計で建てられた洋館建築で国登録有形文化財。ヴォーリズはアメリカ人で、近江八幡に活動の拠点を置いた建築家であった。

■本町〜水口石橋
 本町商店街に入る。以前はアーケードhttp://tamagazou.machinami.net/minakuchi.htmになっていたようであったが、なくなっていた。創業元禄13年という「旅館桝又」が今も営業していると聞いて探してみたけど見つからなかった。中々地方の町だと維持していくのが難しいと思う。高札場からの3本の道が合流する所にも●からくり時計があった。近江鉄道の踏切手前に小さな●石橋がある。「水口石橋駅」の名前の元になったのだろう。ちなみに駅はちっちゃな無人駅だった。 9:45

■水口石橋〜林口の一里塚跡
 踏切を渡ると、城下町らしく七曲がりの様に右折、左折して行くようになる。湖東信用金庫角を右折、突き当たりで左折し、「心光寺」を左に見て、まっすぐ行くが、その前に寺の先で左折して、●「水口城」を先に見ておく。寛永11年家光が、京都に上洛した際、築かせたのが水口城で、明治に破脚されて、一部復元されている。元に戻って、交差点を横断し左折した先に●「水口石」と呼ばれる大石がある。「力石」とも呼ばれ、江戸時代から知られた大石と見えて、浮世絵師国芳が錦絵の題に採っているという。10:15

■林口の一里塚跡〜北脇
 「水口石」角を右折して行くと、右手奥に●「真徳寺」があり、この寺の表門はこの通りに多かった「武家屋敷」の「長屋門」を移築した物だという。この辺りは水口藩の藩庁にもほど近く、長大な百間御長屋や、小坂町御門など城下のたたずまいが濃かったそうだ。先に進むと右手に「五十鈴神社」があって、隣には●一里塚跡碑もある。ちょうどこの付近が「西見附」で、水口宿の出口となっていたそうですが、東と違って標識らしきものは何もなかった。

 旧道はこの一里塚跡で左折し、すこし先の角で右折していく。その先はほぼ真っ直ぐな道が続き、昔は「北脇縄手」と呼ばれていたという。途中に造酒屋の「美冨久酒造」があり、土蔵造の様な白壁が美しい。
 北脇縄手の碑が立つ先は江戸時代松並木が続いていた。昔の松並木は残っていないが、新しく植えられた●松並木が続いている。 10:35

北脇〜横田の渡跡
 
旧道は北脇から「柏木」と呼ばれている場所に移るが、右手の柏木農協内には●「時の鐘」が作られていて、半纏姿の人形が付いていた。下の方には「広重の「東海道五十三次 水口宿」の絵が掛けてある。、水口宿の屋外で干瓢(かんぴょう)を干す農民達を描いた浮世絵をよくは見なかったけど、何を表すものだろうか。「泉」に入って、「泉公民館を」過ぎて、右手に「泉福寺」があり、同じ敷地の中といっても良いくらいの隣の「日吉神社」の両方の境内には、クスノキ、カヤ、ケヤキの巨木がそびえている。特に泉福寺の方の●クスノキが樹高5mに達し見事ではないかと思った。
 また松並木が植る街道を進んで行くと橋が見えてくる。  
11:10

 橋のの手前に東海道の案内標木があるので、ここで左折し、泉川に架かる「舞込橋」を渡ると、右手に●「泉の一里塚跡がある。 これは新しく復元された一里塚跡である。ところが隣には恐ろしげな「墓地」があった。墓石がなく、砂山の後ろに「卒塔婆」やら、小さい墓石らしきものが立っているだけの墓地で、こんなのは初めて見るものであった。右を見ると墓石は壊されて積んであるので、改葬中なのかもしれないが。
 その先にいよいよ●「横田の渡し」に到着した。大きな常夜燈が見える。  11:25

■横田の渡跡〜三雲
 ここを流れる川は野洲川で、昔はこのあたりを「横田川」と呼び、3-9月は渡船により、10-2月は土橋が架けられていた。交通が煩雑で夜中にもおよび危険なので、文政5年(1822)、地元や万人講中の寄付で、建立されたのが、●巨大な常夜燈である。高さは10mを越す。明治時代には長大な木橋が架けられ、現在では1q先の横田橋に代られ、土台の石垣が残っている。周辺は公園として整備されれいる。この先の現在の「横田橋」を渡り、JR三雲駅へ沿って、対岸へ戻って来ると●「横田の渡し」の常夜燈が立つ。こちらはずっと小さい。常夜燈の所を右折して山を少し登った「天保の義民碑」へ向った。  11:45

■三雲〜吉永
●「天保義民碑」
天保13年(1842)10月に行われた検地に対して行われた農民一揆により、検地は延期になったものの、首謀者の主要人物全員が抹殺された。明治になってここに壮大な「義民の碑」が建てられた。
 その後駅前に戻ると、駅前に「微妙大師萬里小路藤房郷墓所 妙感寺」の碑がある。線路に沿って歩くと、民家の脇に、●明治天皇聖蹟の碑が建っていた。この付近は横田の渡しを控えた「田川立場」があった場所だから休憩地になったのだろう。  12:01

 荒川を渡った左手に●「立志神社」、「妙感寺」、「田川ふどう道」の名が刻まれた3基の道標がある。妙感寺の道標には、三雲駅前の道標と同じ「萬里小路藤房卿」の名が刻まれている。「藤房」は、後醍醐天皇に従っていたが、その後出家して妙感寺に出家したという人物。この後急な降雪に見舞われ、運良く国道沿いにマックを見付け、避難がてら休憩に入った。おかげで本日草津まで無理となってしまった。線路を越えて「吉永」に入るとすぐ先に●大沙川隧道が見えてくる。この隧道の上にあるのはなんと川で、これを天井川といい、滋賀県東部に多い。土砂が堆積して川底が上がり、土手を高くしているうちに川の方が高いところを流れるようになった。この先天井川をいくつか見るようになる。  

■吉永〜甲西駅前
 隧道を抜けた左側に大沙川に上る道が付いていて、入口に「弘法大師錫杖跡」の石碑と●「弘法杉」の案内板があった。弘法大師がここを通りかかった時、眺めが良かったのでこの場所で昼食をとり、その時使った杉箸を堤に挿したところ、これが成長して大杉になったと伝えられています。土手に登ってみたら、川には水が流れていなかった。川というには細いし、冬場で水が少ないせいなのだろう。
 弘法杉を越えてしばらく歩けば、立場で賑わった「夏見」の集落に到着した。夏見地区は古そうな家がちらほら散見された。次に同じような隧道が見えてきて、これも野洲川の支流の由良谷川を潜る●「由良谷川隧道」である。ここも天井川で、ここは土手の工事中で、上に上がれず様子はわからなかった。   13:20

甲西駅前〜石部東
 左側に、創業文化2年という、●北島酒造がある。鈴鹿山系の伏流水を使って「御代栄(みよさかえ)」という酒を造っている。家棟川を渡ると甲西町平松。これより南の山中に天然記念物のウツクシマツ(美松)の自生地があるが、少々遠く寄らずにした。足下から枝が出ている珍しい物ということだけど。この先は「柑子袋」と呼ばれる面白い地名の集落に変わる。神社入口を過ぎるとまもなく●「落合橋」が見えてくるが、この川を越えて300m先に石部宿木戸があったという。    13:52

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