24金谷宿から日坂宿へ  歩行地図
 金谷−JR金谷駅−石畳道−菊川-小夜の中山-日坂  8.1km 
24金谷宿
 金谷宿は、東に大井川、西に金谷坂と小夜の中山峠を控えた宿場であり、島田と同じく川留めになると大いに潤った宿である。
 現在は、落ち着いた町並みとなっており、本陣跡等の説明版がある以外は、宿場の面影はあまりみられない。宿場近くの金谷坂において石畳を復元するなど、積極的な取り組みは行われています。
本陣3 脇本陣1 旅籠 51

2007年12月1日の続き  
 ■大井川〜東町
大井川橋を渡り、土手を左に200mほど進んだところから、旧東海道は土手を下り金谷宿に入って行く。堤防から旧道に入るとすぐに八軒屋橋があって、金谷宿の案内が出ている。
●金谷の町並み
現在の金谷の町は駅が二つある町とは思えないくらい閑散としているように思える。旧道の雰囲気を残している道路を先へ進み、 JR金谷駅に続く緩やかな上り坂の商店街が当時の宿場の中心で、この坂の右手に山田屋、佐塚屋、柏尾屋の3軒の本陣が並んでいた。このうち●佐塚屋は今も佐塚書店という店を営んでいる資料も保存していると思われる。  10:00

■東町〜金谷石畳
●金谷の一里塚

 宿場の中心部を越えて緩い坂を上っていくと、左手線路ガード下近くに一里塚跡が設置されている。「榎木江戸へ五三里、島田へ一里・日坂へ一里二四町」と記されている。芭蕉句碑のある長光寺を過ぎ、日本最初の有料道路といわれる中山新道」の案内板があった。
●旧東海道石畳道  10:15
 車道を横切った先に金谷の石畳の入口が続く

■石畳〜菊川
●金谷の石畳

 箱根の石畳と同じく、歩きやすくするために設置し、その後荒れていたのを、平成3年に町民およそ600人のボランティアにより復元が行われ、約430mの石畳道が完成した。但し歩いてみた感想として、石が丸く、隙間も大きいので下を注意しながらでないと、滑りやすく捻挫しやすい。箱根のほうが歩きやすいと思った。
●鶏頭塚  10:20
 途中には「鶏頭塚」、「六角堂」などがあるが、鶏頭塚の奥にある庚申堂は江戸時代の大盗賊だった「日本左衛門」が夜働きをするため、着替えの場所として使っていたとの伝説が残っている。鶏頭塚は旧東海道の石だたみの坂道の途中にある塚の名のいわれとなった、「曙も 夕ぐれもなし 鶏頭華」の句と「六々庵巴静寛保甲子四年(1744)二月十九日没」と刻んだ自然石の碑である。

 石畳を登り切り車道に出る。旧東海道は右へ続くが、左へ進むと●牧の原台地の中心部へ入って行く。現在も日本有数の茶どころとして有名で、お茶の郷博物館などというものも近くにある。
●諏訪原城跡  10:40
 戦国時代に武田方の城があった場所で、天正元年(1573)、信玄の家臣だった「馬場美濃守尚房」に近隣の城を攻略させるための拠点として築かせたのが始まりだという。甲州流築城術の典型だそうで、空堀など良く残っている。どうもはなかなか堀の様子などよくわかるように写すことがむつかしい。

■菊川〜中山
●菊川坂石畳

 ここも町民の手により復元された道だが、古い石畳が残る部分は発掘して遺され、失われている部分が復元されている。●古いほうは江戸後期の石畳道だそうだ。平成の道の方が江戸時代の道より石の並べ方がスカスカで歩きにくかった。  10:55

●間の宿 菊川
 金谷宿と日坂宿の間のように短い距離でも、急所難所が続くので特別に間の宿 「菊川」 が置かれた。ここの名物が 「菜飯田楽」といういもの。
●「宗行卿詩碑」と「日野俊基歌碑」  11:05
 承久3年(1221年)に起きた、承久の変において、敗れた御門中納言藤原宗行が、鎌倉へ送られる途中の七月十日菊川の宿に泊まり死期を覚って宿の柱に詩を書き残した碑。また承久の変から約百年後の、正中の変で日野俊基は捕えられ鎌倉への護送の途次菊川の宿で、宗行の往事を追懐して一首の歌を詠んだ碑。

■中山〜日坂
 菊川を抜け、いよいよ小夜の中山の登りに入る。ここの坂道は本当にきつく、約20分間ゼーゼーの体。現在は舗装されているからましだけれども、雨でも降ったらどうなるか、道は川に変わってしまうだろうし、馬でもころんでしまうだろうと思う。急坂過ぎて、写真撮るの忘れた。
●久延寺   11:25
 やっと峠の頂上に出る。右手に久延寺がある。こは関ヶ原の戦いが行われた時、「山内対馬守一豊」が茶亭を営んで「徳川家康」をもてなした場所と言われているが、夜泣き石で有名。
●夜泣き石
 昔、小夜の中山を旅していた「妊婦」が山賊に襲われ、命を絶ったが、腹の中の子供は奇跡的に村人によって救い出され、一命を取り止めた。 その後、その子供は付近に住む村人が水飴によって育て上げ、無事成人し、後に親の仇の山賊を討ったという。但し国道1号線沿いのトンネル脇にも残っていて、歴史的経過からして、本物はこちらではないかと言われている。

●峠の茶屋「扇屋」
 久延寺の隣に峠の茶屋「扇屋」がある。この茶屋は「膝栗毛」にも登場していて、夜泣き石伝説に登場する「水飴」が「子育て飴」として売られている。しかしこちらの子育飴の由来については久延寺のものとは違っている。このあたりはいろんな伝説が残っている。
●「小夜鹿の一里塚」  11:40
 江戸から数えると54番目の一里塚。

旧道の左右は茶畑が広がっている。中山峠はちょうど尾根の上を歩いているので、両側によく視界が広がる。右手奥の方の「粟ヶ岳」の頂上付近の「茶」の文字が見えている(写真の右奥)。またこの山の中腹には「東海道名所図会」によると「無言山・観音寺」という寺があり、小夜の中山の観音寺にある梵鐘を撞くと、現世では金銀財宝を得るが、来世では無間地獄に落ちて苦しむといい、この鐘を「無間の鐘」とよんだ。その後この鐘は井戸に投げ込まれ「無間の井戸」というのが残っているらしい。

●「鎧塚」  11:45
 一里塚の先に「鎧塚」が見られるが、これは足利一族の今川頼国が北条一族の名越邦時の武勇をたたえて塚を建てて葬った所であるという。
●「夜泣き石」跡
 しばらく歩くと左手にある。久延寺の夜泣き石は江戸時代からこの付近にころがっていたとされる。 広重もここを描き残し、記念碑が立っている。。大名行列も石のたたりを恐れてよけて通ったと言われている。

 夜泣き石跡を過ぎると旧道は道幅がさらに狭くなっていて、 この辺りは「沓掛」と呼ばれていた集落。しばらく歩くとNTTの中継塔や「沓掛稲荷神社」が見える。 沓掛稲荷神社入口を越えると旧道はさらに急な下り坂に変わっていて、つづら折りの曲がりくねった厳しい道が続く。国道に出たら少し戻って西へ行ったら日坂宿に出る。
   11:20

23島田宿  25日坂宿