49 土山宿から水口宿   歩行地図
 「あいの土山」−くるみ橋−南土山−前の−大野−今宿−今郷−新城−水口東見附 12.1km 
49 土山宿
 「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と鈴鹿馬子唄に唄われる土山宿は鈴鹿峠を越えて初めて入る宿場であり繁盛したと言われる。早くから宿場の性格を持っており、文禄4年(1595)には土山宿の伝馬飼料のために、年貢を30石を免除されている。 宿の中心は中町から吉川町にかけてで、本陣・問屋場・陣屋・高札場などの施設がある。この地域も鉄道路線から外れて、寂れてしまったが地域の人々により宿場の保存の努力がされている。
本陣 2、旅籠屋 44

 ※ あいの土山の「あい」とは、鈴鹿峠をはさんで坂下宿と相対する土山宿とか、土山が本宿に設定される前は、間宿であったなど7説が紹介されている。(http://www.ainotutiyama.co.jp/)

2008年11月11日、坂下宿からの続き
■道の駅「あいの土山」〜来見橋
 ●土山宿の町並
 「あいの土山」裏で右折すると、土山宿の大きな案内看板がある。土山宿はこの先の「来見橋」が入口らしいのだけど、案内板も立つし、左右に商屋風な建物が建っているしで、ここから始めたいと思う。道は昔の幅のまま?で、亀山宿と同じように薄茶色で舗装されていて、旧街道らしい雰囲気が感じられる。地元の「土山の町並みを愛する会」の取組みで、昔の屋号の木札が下げられていたり、旅籠跡には石柱が立っていたりして好ましく感じる。すぐ右手は旧商屋風な家で●「旧加賀屋」の札が下がる。この先もこんな風な建物が多かった。11:30

 先の左手に●地蔵堂があり、左側に道標があった。 「従是 右京都へ十五里 左江戸へ百十里」、と刻まれていて、あと京都まで15里、60キロ程で到着する。我ながら良く歩いてきたものだ。
 向側の建物は●「三日月屋」跡で、江戸時代の土山宿で名物だった「お六櫛」を商う店であったといわれている。お六櫛とは信州の村娘「お六」が御嶽山のお告げを受けて考案した櫛で、信州からの旅人により伝えられそうです。11:35

 地蔵堂の隣には●上島鬼貫の句碑があります   吹け波ふけ 櫛を買いたり 秋乃風
 鬼貫は、大阪の伊丹で生まれた俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫とも言われ、独自の俳諧の境地を拓いた人である。この俳句は、鬼貫が、貞享3年(1686年)の秋に、東海道の旅の途中、土山に寄り、お六櫛を買い求め、鈴鹿の山へ向かう時に詠んだ句である。少し先の右手に、●土山一里塚跡の標柱がある。石柱だけが立っている。このあたりの字名を一里山と呼ぶそうだ。 11:40

■来見橋〜土山宿本陣跡
 尚進んで行くと左手に、●黒門の塀のある大きな建物の家がある。旧屋号は油屋権右衛門なので、油屋だったのだろう。
 右手に小さな●来見橋(くるみはし)が架かるが、ここが本来の「土山宿」入口であったらしい。橋の欄干には土山茶もみ歌となどの絵が掛けられていた。
11:50

 左手に結構風格のある連子格子と白い漆喰壁の家がある。●大原製茶場という。旧屋号は「油屋平蔵」とあるので、ここも元は油屋であったのだろう。左右に旧屋号の札が下がる家が多いのできょろきょろと忙しい。
 ●白仙終焉の地 井筒屋跡 の石柱を見る。 森鴎外の祖父白仙は文久元年(1861)11月7日この井筒屋で没した。森家は代々津和野藩亀井家の典医で、白仙は参勤交代の折り、ここでなくなった。その斜め前が森鴎外が墓参りで訪れ、泊った平野屋。  

 その先の左側に、江戸中期の建物を改造したという●食事処うかい屋がある。ここの御主人は旧東海道の研究家で、名物だった「夕霧そば」の復元に努めている方だった。・・ということは帰ってから知ったこと・・。お昼を済ませたので通過してしまった。うかい屋さんの先に、●「二階屋」脇本陣跡の碑もある。天保14年の「宿概帳」には脇本陣はなかったので、どういうことかわからない。現在の建物とは違うようだけど、現在の建物もかなり立派でした。11:55

■本陣跡〜国道1号線
 二階屋の先には堂々とした屋敷がある。二階は白壁、連子格子を備えた大きな家で、●「問屋宅跡」の石柱が立っている。「問屋」の建物自体はなくなって空地になっており、その宿場役人を務めていた家ということだ。この建物が昔のままかというとそうではないらしい。土山宿は、南土山村と北土山村と二つの村からなり、問屋場も、交代して務めていた。少し先には●「土山宿本陣」が見えてくる。甲賀武士「土山鹿之助」の末裔、「土山喜左衛門」が初代を努めた。現在でも、大名などが宿泊した上段の間や、庭園などが当時のまま残されており、宿帳や関札・工芸品などの貴重な資料が文化財として保存されているとのこと。予約すれば見ることが出来るそうだけど、予約していないので外から眺めるだけ。

 土山本陣は明治になっても、天皇行幸の際使用され、特に明治元年9月、行幸と天皇の誕生日がたまたま一致し、第一回天長節がこの本陣で行われた。その●聖蹟記念碑が本陣の左隣に建っている。左隣の大きい石碑は大正時代、行幸のエピソ−ドを聞いて「井上園了」が詠んだ漢詩の碑。
 県道の交差点を越えると●大黒屋公園があり、大黒屋本陣跡と土山宿問屋場跡の石柱が立っている。左側に高札場跡の石柱も立つ 参勤交代で往来が増加したので、土山宿本陣だけでは間に合わず、当宿の豪商であった大黒屋立岡に控本陣が指定された。12:00

■国道1号線〜頓宮跡
 その先に前のくるみ橋と同様の橋が架かり「大黒橋という。この橋も同じように、鈴鹿馬子唄の一節と絵が掛けられていた。この後国道へ合流するが、右角に●東海道土山宿の碑が常夜燈と共に建っている。国道1号を横断したところで、右側の細い道に2基の道標が建っているが、御代参街道の起点の道標という。伊勢神宮などへ公家の代りに参拝する人々が通った道と言われる。次に国道から●北西へ続く旧道へ入って行く。12:10

 江戸時代の東海道は、国道を横断したところで、北西の方向に向かって道が続いていた。その道は松尾川(現在の野洲川)の渡し場に出て、舟で川を渡り、そして南西方向に向い、垂水斎王頓宮跡の脇を通り、国道を越え旧道へ至っていた。(地図の赤線)現在では渡しの所に橋がなく、通行が不可能なので、国道から入ったらすぐ左折して国道へ歩き、自動車工場の所を左折して、屋根のついた●「歌声橋」という橋を越えて旧道へ合流する。(地図の青線)大きな迂回となります。

■頓宮跡〜大野
 旧道から国道を越え、●頓宮跡へ行ってみた。国道脇に標識が立っていて、茶畑を奥へ入って行く。頓宮とは伊勢神宮へ天皇に代って未婚の女王(斎王という)または内親王が伊勢へ向うときに宿泊する施設があった場所をいう。 伊勢神宮に向かう行列は「斎王群行」とも呼ばれ、数百名もの従者を伴った賑やかなものであったと伝えられている。群行は平安初期から南北朝くらいまで続いていた。(案内板)頓宮を過ぎ、「前野」に入ると右手に●「地安禅寺」があり、左手に「林丘寺宮御植栽のお茶」という標柱立っている。御水尾法皇(1596〜1680)の御影・御位牌安置所があるお寺で、宝永年間(1704〜1710)に林丘寺光子(普明院)が植栽されたという。12:45

 前野を過ぎると、「市場」へと入る。市場公民館を通り過ぎた右手に●「市場の一里塚」跡が見られる。左手には見事な茅葺の家がある。壁はべんがらの赤色をしている。最近ではこういう茅葺は維持が難しい。大抵トタン屋根に変ってしまっている。「大日川橋を渡った先の左手に「東海道反野畷」と書いた道標があり、その先は見事な●松並木が続く。一度枯れてしまって、復元された並木らしい。松並木が途切れるあたり「従是東淀領」と書かれた石標がある。13:00

 ■大野〜今宿
  国道に出る手前は「大野」というが、昔の立場で賑わったらしいのだけど、「旅籠」の標識が多いのが不思議。立場には宿泊出来る旅籠は置かれないのが建前。右手●旅籠小幡屋跡は、明治天皇聖蹟の碑が建つ。 旧道は大野で国道を横切る。角に●「三好赤甫」の句碑が見られる。赤甫は東福寺の虚白の弟子で、この地方の俳諧の基礎をきずいたとされる。13:20

■今宿〜岩上
 国道を渡った先は●「今宿」と呼ばれる集落で、ここにも茅葺の家なども見られる静かな道が続いていた。この道は「大野西」で国道を横断し、県道594号に出たらすぐ、国道と県道の間の細い道へ入ることにしないといけない。少し行くと左手に●「今郷の一里塚跡」がある。この先はカーブして県道へ出る。「今郷」バス停付近に「街道を行く」の碑が出来ていた。13:50

■岩上〜水口宿東見附
  県道594号に出てまた少し歩くと先に旧道部分が残っていて、右折して「今郷」集落へ入る。 この付近は県道とぶつかったり、脇へ入ったりしている。南を流れる野洲川の地形の関係からだろうか。「今郷」の集落には●古い家もちらほらと見られる。岩上橋を過ぎて、角の時計の掛っている●白い家の所を右折してまた旧道へ入って行く。「新城」という地名になる

 ●「新城の」街を歩いていく。帰りの時間のこともあり急ぎ足になって、右手の「八幡神社」を通過してしまった。その先の秋葉北交差点を越えると、いよいよ水口宿の入口になる。角に小公園があって、「水口宿」の標柱が立っている。その先すぐ右手に●水口宿東見付(江戸口)跡があり、冠木門が作られている。見付とは近世城郭の門など、外と接し警備を行った場所をさす。 案内板を読む さて本日はここで終り、この先の「近江鉄道」「水口石橋駅から東京へ帰りました。」。駅到着14時45分。次回は東見附まで戻り、再開します。

48坂下宿  50水口宿