東  海  道







 TOP
日 本 橋    
品川宿
川崎宿
3 神奈川宿
保土ヶ谷宿
戸塚宿
藤沢宿
平塚宿
大磯宿
小田原宿
10 箱根宿
11三島宿
12沼津宿
13原 宿
14吉原宿
15蒲原宿
16由比l宿
17興津宿
18江尻宿
19府中宿
20丸子宿
21岡部宿
22藤枝宿
23島田宿
24金谷宿
25日坂宿
26掛川宿
27袋井宿
28見付宿
29浜松宿
30舞阪宿
31新居宿
32白須賀宿
33二川宿
34吉田宿
35御油宿
36赤坂宿
37藤川宿
38岡崎宿
39知立宿
40鳴海宿
41宮 宿
42桑名宿
43四日市宿
44石薬師宿
45庄野宿
46亀山宿
47関 宿
48坂下宿
49土山宿
50水口宿
51石部宿
52草津宿
53大津宿
  京都三条
(京街道) 
  山科追分
54伏見宿
55淀  宿
56枚方宿
57守口宿
  大  阪
 
 27 袋井宿から見付宿へ  歩行地図
 天橋-本陣跡-御幸橋-木原-三ヶ野-富士見町-見付  6.9km

27袋井宿
 宿の制定は他の東海道の宿場より遅く元和二年(1616年)。掛川と見附の間が四里と広く、その間を埋めるために袋井が追加された。27次目ということで、「東海道ど真ん中の宿」ということを宣伝している。宿場の規模としては小さく、町並も五町程度しかなかったが、「遠州三山」「秋葉神社」の参拝客で結構賑わっていた。
本陣3、脇本陣0、旅籠屋50

 2007年12月2日 8:00 ホテルから新屋交差点まで戻りました。旧道は交差点から南西へ進む。
■新屋~天橋
●新屋の秋葉山常夜灯

 瓦屋根を載せた木造の「屋形」常夜灯でこういう形は珍しい。東海道には秋葉山常夜灯というものが沢山残っている。軒下の細かい彫刻が見事である。
●袋井宿と天橋碑
 天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入口にかかっていた土橋で、「広重 袋井」の絵がここにあたる。

■天橋~御幸橋
●東海道どまん中茶屋
 8:20
 自治会や有志グループがボランティアで運営していて、当時の茶屋風景を再現しているという茶屋。残念ながら朝早く、入れずじまい。
●東本陣跡
 代々田代家が勤めていて「田代本陣」とも呼ばれ、袋井では一番大きな格式の高い本陣だったという。他には大田家の勤めていた「中本陣」と「西本陣」があったという。案内板

●袋井宿場公園 
・・・袋井宿の名は、すでに弘安の頃(1278~88年)に書かれた「遺塵和歌集」の長歌の一節に見ることができます。「江戸時代の袋井宿は、徳川家康公により東海道の宿駅制度が定められてから十五年後の元和二年(1616年)八月四日に開設されました。江戸日本橋から数えても京都三条大橋から数えても二十七番目、東海道五十三次のちょうど「どまん中」の宿です。・・・門を入ると、めぼしいものはなくイベントなどが掲示されているだけ。

 ■御幸橋~木原
 袋井宿西側出口は現在の「御幸橋」を渡った先辺りで、江戸時代は橋の手前が枡形になっていて京方出口へ続く。たもとは●本町宿場公園として整備されていて、当時を偲ばせる高札場や土塁、従是袋井宿と記された標柱などが再現されている。 西隣の市立袋井西小学校は●「東海道どまん中西小学校」ですと。「東小学校」が昨夜で撮れなかったので西の方を撮っておいた。 8:45

●旧澤野医院
白いペンキで塗られた洋風木造建築があった。
 袋井市指定文化財の旧澤野医院である。旧渾野医院は澤野家が江戸時代末期から昭和初期ま
でに建築し、使用してきた建物群です。澤野家は享保122年(1727)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に内科医としてその名が記される医者でした。旧東海道は川井の交差点で旧国道一号線と合流し、その後●松橋で右へ分かれて木原の集落に入る。

■木原~三ヶ野
●「木原の一里塚」
 9:05
 この一里塚跡は、平成11年に復元したもので、昔は東へ60m程の所にあったもの。塚の先の右側に●許禰(こね)神社(木原権現社)がある。許禰神社は、式内社で古代末期に創建されたと考えられているという。またこの地域は木原畷(なわて)と呼ばれる古戦場でもある。武田軍と久野氏と一戦を交え、家康が敗北した三方ヶ原の戦いの前哨戦であった。家康が腰掛けたと伝わる●「腰掛け石」も残っている。

 木原を過ぎ、旧道が旧国道1号線に再合流してまもなく磐田市に入る。先の西島の集落で、次の目標地、須賀神社へ向かう。案内看板はあったが、文字がすり切れて読めなかった神社は大したことはなかったが、●クスノキの大木があった。樹令は推定500年という。 まもなく太田川に架かる三ヶ野橋を渡る。そのは国道1号線、磐田バイパスなどが複雑に交差していいるが、旧道は●松並木がある道なのですぐ解る。そこを入って行く。

■「三ヶ野~富士見
 ●「三ヶ野坂」
 9:45
 ここには時代と共変遷してきた道がすべて残っている珍しい地域で、突き当たりが●「明治時代の坂」、、右手には「大正時代の坂」、さらに明治時代の坂の途中は「江戸時代の坂」の入口になっている。「今」本には明治の道が掲載されていて、それに従い明治の道を行ってしまった。途中の江戸時代の入口の坂を登るべきであったかと思う。鎌倉古道もあったというので惜しい気がする。登り切った所に、三ヶ野公会堂があって、車井戸之跡」の碑と「従是鎌田山薬師道」の道標が立っている。水道が敷かれるまで井戸があったという。

 ■富士見~見付宿
 ●「見付の松並木」とかいう松が残る道を進むと、旧東海道は少し登って国道一号線と合流する。右側には●「遠州鈴ケ森」の標柱が立っている。品川と同じ刑場跡である。日本左衛門の首が晒されたところでもある。。急な階段を上ると、●「南無阿弥陀仏」の碑があるが、これらの供養塔はこの先にあった「」で処刑された人々の霊を慰めて供養するために建立されたものだという。  10:15

 この先富士見町東交差点で旧東海道は国道から分かれ、右手に入っていく。途中に●秋葉常夜燈などが建っている。旧道はしばらく民家の中に続き、先は●急檄な下り坂に変わっているが、この急坂を下ると見付宿が明るく広がっている。左側の林は秋葉神社がある小山。
見付け宿へ続く        10:30

26掛川宿へ 28見付宿へ