9 小田原宿から箱根宿へ 歩行地図
 江戸方見付-新宿-板橋見付-三枚橋-旧石畳道-畑宿-七曲がり-元箱根  16.5km
9小田原宿
 小田原は箱根山を控えた関東の玄関口として、軍事的、かつ地理的にも江戸防衛の重要な拠点であった。東海道を発って以来、初めての城下町でもあり、大久保加賀の守11万3000石の城下であった。本陣、脇本陣の数も53宿のうちではもっとも多く、旅籠屋も数多く軒を連ねていました。
本陣4、脇本陣4、旅籠95

 2007年3月18日9時 小田原駅到着。前回終わった、山王神社まで1kmほど歩いていく。 快晴■山王橋~国際通
★山王神社

 宿入口手前の山王川に架かる山王橋を渡った右手にある神社。昔は別な場所にあり、度々嵐に遭い、1613年今の場所に移った。一名星月夜ノ社とも言われ、小田原の名所であったとのこと。
★小田原城出城石垣跡
 当時この付近は,山王川を前にした小田原城の出城になっていて1590年,秀吉の小田原攻め時,激しい攻防が繰り広げられた。この石垣のある場所に神社が立っている。  9:25

★江戸方見付
 公民館敷地の中に松の木が立っており、江戸方見付碑が建っている。碑の前に案内板があるのだが、ちょうど神奈川知事選挙のポスターボードが設置され全く見えない。そこで前回の写真を使うが夕方で暗めになってしまう。選挙だから仕方がないが、ちっとは場所をずらして設置してほしいものだ。
■国際通~本町
★ 旧(脇)本陣「古清水旅館」(訂正)

 見附の先新宿交差点を左に右にカギ型に曲がる。とたんにかまぼこの店が多くなる。かまぼこ通りとか呼ばれているようです。国道とぶつかる本町手前に、小清水旅館が営業中であり、小田原本陣跡となっている。建物は、明治維新、太平洋戦争等で焼失したとのこと。 9:45
(2009.7.19 メールで訂正申入があり、調べた所脇本陣でした。失礼しました) 

★明治天皇宮ノ前行在所跡
  旅館の右隣。「明治天皇宮ノ前行在所跡」の碑がたっています。案内板によると、ここは清水金左衛門本陣のあった場所で、清水家は小田原宿筆頭の本陣で町年寄りも勤め、宿全体の掌握を行っていたとのこと。
★松原神社
  1145年創健の小田原宿の総氏神で、祭神は日本武尊。小田原はこの松原神社を核として発展してきたとも言われ、例祭は市内最大で、山車で奏する小田原囃子は神奈川県無形文化財に指定されている。

■本町~JRガード
★調剤薬舗「小西本店

 本町を過ぎ、右手方向は小田原城であるが、城には山登りがあり、時間がなさそうなので行くのを止めておいた。道の左手に白壁で、古い造りの薬屋がある。調剤薬舗「小西本店」の看板も屋根掛けで趣があり、建物も重厚な造り。いかにも小田原宿という感じがするので撮っておく。
★ういろう
 斜め右手が、八棟造りの城のような造りの「外郎(ういろう)」の店。ういろうは透頂香(とんちんこう)という、仁丹と同じような銀色の小粒の薬で胃腸などに効くといわれ、現在では貴重品らしく対面販売のみという。おかしの「ういろう」というものもあり、名古屋の方が有名だけど、江戸時代以前は外郎家においては来客用の菓子であり、市販は明治時代からということ。古い建物は関東大震災の際に倒壊して現在のものとは趣が違うといわれている。
  10:00


★居神神社(いがみ)
 道を西へ行き、東海道線と新幹線のガードに挟まれて、右手に居神神社(いがみ)という変わった名前の神社がある。木花咲那姫と火之加具土神と三浦義意を祀る。義意は北条早雲に敗れ自刃後、首を晒されたが3年間通行人を睨み付け恐れられた。そこで久野総世寺の忠室存孝和尚が供養したらたちまち白骨となって成仏したといういわれがある。
★古碑群
 神社の左手奥にあるもの。・・・この碑群は市街地に残るものとして最も古いもので、およそ660年前(鎌倉時代末期)のものです。文保・元亨の両板碑には刻文があり、その中のいずれにも念仏衆の字句があって、これらの板碑が念仏供養のために建てられたものであることが分かります・・・。(小田原市公式HP)

■JRガード~風祭
★大久寺
 神社の正面にある。小田原城主大久保忠世が天正18年(1590)に開いた寺で大久保寺の意味がある。大久保家は三河時代からの譜代で小田原城落城後の城主となった。
★板橋見付(上方見付
 板橋見付で国道を右に折れ旧東海道(板橋街道)に入って行く。ここで小田原宿は終わりになる。静かではあるが、車は結構やってくる。地図を見ると右手は寺ばかりのようで、旧道らしいといえば旧道らしい。  10:30

★板橋の地蔵堂
 道が箱根登山鉄道にぶつかる手前にあり、板橋のお地蔵さんとして知られる。入口に古ぼけて銘も読みにくいが、明治維新の際の官軍戦死者の墓がある。
★大黒天像
 本堂の右にある大きな木造の大黒天像に圧倒される。こんな大黒さん見たことがない。 入口の案内板には書かれておらず、由来などわからない。

■風祭~入生田
★石垣山

 登山鉄道のガードをくぐり、国道と一緒になる。左手の丘のような山が太閤一夜城があった石垣山。天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原城を包囲したとき、本陣を構えたときに石垣を築いて城を築いたので石垣山と呼ばれるようになった。城まで距離は2km位でしょうか、昔は視界もいいだろうし、声も通るだろうし、秀吉が城に向かっておしりをたたいて挑発したという場面をNHKの大河ドラマ「功名が辻」でやっていた。
★小田原の道祖神と風祭の一里塚跡
 小田原厚木道路をくぐり、踏切を渡り、左折していく。登山鉄道が左を通っている。少し歩くと風祭の駅が左側にあり、その少し先の右側に小田原の道祖神と一里塚跡の碑があった。江戸から21番目の一里塚である。一里塚の案内は立っていたが道祖神についての案内はなかった。 11:00

 ■入生田~山崎
歩いていると右に紹太寺に行く案内板があった。
★長興山紹太寺 
 黄檗宗のお寺で、江戸時代の初期(寛永、寛文、万治の頃)小田原藩主であった稲葉一族の菩提寺で、宇治万福寺から招かれた鉄牛和尚が開山した。幕末の火災によって建物が焼失し、現在では子院の清雲院が紹太寺の寺号を継いでいます。360段の石段を登った先に、鉄牛和尚のお墓などあると案内にありますが、箱根の山越えを控えている身としては少々きつく上がらずにすませた。寺の本堂は茅葺きで美しい。昔は10町歩に及ぶ寺域があったそうですが、焼失したのが惜しまれます。入生田の駅を過ぎる。駅の周りには見た限りでは何もなく、ここらへんの駅はそんな感じ。

■山崎~三枚橋
。道を先に進み入生田の駅を過ぎて暫く行くと、旧街道はまた国道1号線に合流する。そしてすぐ右に折れ、旧道に入っていく。山崎という地名の所で国道と合流する。この付近に官軍と幕府軍が戦った古戦場の碑があるというので探してみたけど、付近は箱根新道の工事中で騒がしく、向い側にも渡れずでわからずじまい。しょうがないのでそのまま国道を歩いていく。早川が流れ少し先に●三枚橋が見えた。ここを渡るといよいよ山登りの始まり。温泉宿の中に入って行く。橋を渡らず真っ直ぐ行くと湯本駅前を経て、古代東海道であった湯坂道を通ることもできる。  11:45

■三枚橋~台の茶屋
★金湯山早雲寺

 小学校の隣にある。図会・・・湯本村にあり、禅宗済家(臨済宗)。開山正宗大隆禅師。本願伊勢新九郎長氏(北条早雲)永正16年(1519)建立
・・・言うまでもなく北条早雲の菩提寺でこの寺に眠る。小田原攻めの時秀吉の本陣が置かれた。連歌師宗祇の墓もある。
元は鐘楼と同じような茅葺きの屋根だったらしい。
★梵鐘
 鐘は元徳2年(1330)の鋳造で小田原攻めの際、石垣山で使用される。 11:55

★正眼寺曽我堂
 早雲寺の先の左手にある。創健年次は明らかではないが、湯本地蔵堂の別当寺として鎌倉前期には存在していた。そして曾我兄弟の縁者達によって兄弟の供養地蔵が奉納された。
曽我五郎が力試しに使ったという槍突石もある
★石造大地蔵
 案内板が摩滅して読みにくいが、小田原城主稲葉氏の菩提寺である長興山紹太寺にあったものを、慶応4年明治維新の戦火でここの本尊の地蔵像が失われたので代わりに招聘されたとある。

■台の茶屋~須雲川橋
★旧道石畳道入口

 県道の長い上り坂を更に上って行くと、やがて右側に「石畳入り口」との道標が立っているのが見える。道標に従って右の道へ。
★石畳道の様子
 この道はそんなに長くなく、250m位のもの。途中に猿橋という橋が架かっている。ここらへんはスラスラ飛ぶように歩いてしまう。すぐ県道に出てまた少し歩く。途中訳のわからない金ぴかの派手な山門に出会う。撮影禁止だと・・・この先初花の滝の碑があるというので探しながら歩いたがわからなかった。初花の滝というというのもわからずじまい。 12:35

★鎖雲寺・飯沼勝五郎、初花の墓
 左手に寺があり、初花の墓があるというので入ってみる。鎖雲寺という。中に初花堂があり、夫妻の墓が脇にある。
  箱根霊験躄仇討(はこねれいけんいざりのあだうち)」といえば有名な芝居だそうで(見たことはない)飯沼勝五郎、初花は、それぞれの兄や父親の敵を追って箱根の山に入る。しかし勝五郎は病で歩けなくなり、初花は親の仇に返り討ちに遭って亡くなってしまう。勝五郎は必死の立ち上がろうとすると箱根権現の霊験が現れ、見事本懐を遂げるというお話。  13:07

■須雲川橋~畑宿
 須雲川を渡る手前左側に「須雲川自然探勝歩道」入口となっている。東京電力の社有地を行く道で、歩くには十分魅力的である。が旧道ではないなと思い県道の方を行くこととした。女転ばし坂というのはどうも探勝路の方にあったみたいだ。県道にも女転ばし坂の案内が立っていたけど、坂とはどこを指すのかよくわからなかった。しばらく行くと「史跡旧東海道石畳入口」の標識が立っている。●大澤坂の石畳道と呼ばれるようだ。結構苔むして歩きにくいが箱根らしい道と思う。登り切ると畑宿に出る     13:36
       
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★石畳道について

 東海道の箱根越の道は江戸初期には竹を束ねて階段状に敷いただけで、雨の後はぬかるみが膝まで達し、旅人は大いに苦しんだという。そこで幕府は1400両を使い、1680年頃石畳を整備した。その後何度か整備拡張されている。その後関東大地震や北伊豆地震(1930)で大半が崩壊し、畑宿から元箱根にかけては石畳の道が何ケ所かあるが、当時の石畳を再現し自然歩道として整備されたものである。石畳が歩きづらいのは大軍の進軍を阻むため、意図してでこぼこに造られとも言われている。

■畑宿~七曲がり
★畑宿

 小田原宿と箱根宿の間にある間宿である。もとは木地師の村であったが江戸後期になると土産物として寄木細工が始められた。畑宿本陣跡の看板のある建物もあるが、立場であるので本当の本陣ではなく、休憩用の茶屋本陣と呼ぶべきもの。写真の家は本陣ではなく本陣バス停の前にある家で旅籠風。
★畑宿一里塚
 日本橋から23里目の一里塚。発掘調査をして一里塚の構造を復元したもの。復元したものとはいえ両側に石垣を備えた古式が残る貴重なものなので、パノラマにしてみた。当時は右側に樅の木、左側が欅が植えられていたそうです。この間をまた石畳の道が続いている。  13:55

■七曲がり~元箱根
★七曲がり

 七曲がり」のヘアピンカーブの付近だが、旧東海道は複雑に分断され、道も階段式に造りかえらていて、かつての経路がわからない。ここは橿の木坂といって、街道一の難所で、あまりの険しさに「どんぐりほどの涙をこぼす」といわれた。階段を上がるのは確かにきつい。
   この先猿滑坂とか追込坂とか名前のついた坂が続く。県道に出ると江戸時代から続く甘酒茶屋へ出る。隣に街道資料館も ある。甘酒でも一杯と思ったら、車で来ている人が多く、ありつけそうになく断念し先に進む。また石畳道が元箱根まで続いている。この道が一番きつかった。雪も少々残っており写真など撮る余裕もな上っていく。  14:25

★終点近く
 坂を上りきり、少し平たくなると「箱根馬子唄」の石碑が出会う。目の前に箱根のシンボル、二子山が見えると案内にはあるが樹木でほとんど見えない。そこから下り坂になり、登りより滑りやすく慎重に下る。終点近くでようやく平地になってくる。
★ケンペル・バーニー碑
 エンゲルベルト・ケンペルは元禄年間医師として来日したドイツ人で、『日本誌』により、世界に日本の文化や諸相を広く紹介した。シリルモンタギュー・バーニーは、芦ノ湖畔に別荘を構えたイギリス人貿易商で、『日本誌』の序文を引用し、箱根の美しさ残さねばならないという自然保護の精神訴えかけたという。碑をを過ぎると石畳道は終わりとなり、興福院という寺の脇へ出る。元箱根到着15:05 その先杉並木、箱根関所と続くわけだけど山登りして来た身としては歩くのがつらく、ちょうど右手がバスセンターであったのでバスに乗って小田原駅まで帰ることとした。並木は次回のお楽しみということで・・・・・・・本日20km程でした。  

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