28見付宿から浜松宿へ  歩行地図
 見付-見付小学校-加茂川-国府跡-中泉-長森-天竜川-浜松市街  14.7km
28見付宿
東海道を京から東へ下っていくとこの地で旅人がはじめて富士山を見ることができたので「見付ける」がその由来だと言われている。もともとは遠江国の国府が置かれた土地であるが、鎌倉期には国衙と守護所が置かれ、中世の東海道屈指の規模を持つ宿場町となった。
本陣2、脇本陣1、旅籠56

2007年12月2日の続き 10:35
■見付・愛宕神社~見付宿
 袋井方面からやってきて、急坂の左側は愛宕神社のある小山である。阿多古山一里塚跡の案内板が出ていたが、この小山が一里塚と思えず、外を探したがどうもここらしい。登って●見付を一望して見た。ここからの眺めはすばらしい。坂を下りた所に●見付宿東木戸跡碑が造られている。(気がつかなかったが小山の頂上に一里塚の碑があるのですと

■見付宿~旧見付小学校
 ●見付の街並み

 東見付跡から宿内に入ると、きれいな商店街になっていて、整備された歩道には見付を代表する「見付小学校」や磐田市の花、鳥などがタイルに埋め込まれていて見事。かなり道路は広く旧道とは思えない。ここの最寄り駅はJR磐田駅と思うが、かなり遠いけど結構賑わいがある。藤枝などの方が寂しいと思えた。宿場らしさの保存も工夫されているように感じられた。

●予備校の建物
 予備校だけど、宿場風に工夫された建物になっている。
●高札場之跡
  高札場之跡の看板が出ている。隣には立派な常夜燈がある。馬場町安全の文字が彫られている。(ブルーシートが写るので少し修正した)。

●淡国玉神社  11:00
 見付小学校隣にある神社。延喜式内社にして、遠江国総社。主神は大国主命。拝殿、幣殿は文久年間のものだが、三間社流造の本殿は、明暦年間の建物で、17世紀の中頃のもので古い。また朱印七二石を授かっていた由緒ある神社だという。市文化財に指定されている。ここの狛犬は主神が大国主命なのでウサギさんなのであった。

■旧見付小学校~西坂町
 ●見付小学校

 現在の見付を代表する建物で、町のシンボルにもなっている。地元の熱意で、明治7年棟梁伊藤平右衛門の設計で着手、翌8年に|開校しました。基礎の石垣は遠州横須賀城の石垣を利用し、間口12問・奥行き5間の木造洋風2階建てに屋上2層の楼を完成させました。玄関はエンタシス様式の飾柱、分銅付き窓の日本本最占の現存木造洋風校舎です。今は「市立郷土館」としても使われている。案内板 ●明治の教室風景を撮影した。

●脇本陣大三河屋門  11:20
 右手にある。・・・「大三河屋は、はじめ旅寵屋でしたが、文化2年に脇本陣となりました。この門は、2本の本柱上に冠木を渡し、その上に梁と切妻屋根を載せています。脇本陣の玄関を飾るためか、小さいなから薬医門の形をした門です」・・・
 旧東海道は西坂町で磐田駅の方向へ左折する。左折しないで真っ直ぐに西に進む道は●「これより姫街道」という看板が立つ。 三州御油までの姫街道の始点である。新居の関所をきらった女性はここから御油へ向かった。いずれこの道は歩くつもり。

■西坂町~府八幡宮
  本坂越道の残る交差点で左折)すれば、まもなくで見付宿も宿をはずれる。 ちょうど右手の中村眼鏡店付近に西木戸跡」の碑が立てられている。西光寺前を通って国道1号線を横切るが、先の通りは現在「天平通り」と呼ばれている所で、すぐ先の左側に入った所に、●わずかに残った旧道部分が見られる。この旧道部分は磐田郵便局からすぐ元の天平通りに戻っていて、左手には公衆トイレや税務署が並んでいる。

●遠江国府跡  11:40
 街道右側に国分寺跡の入口があり、中に入るとちょうど●発掘中の広場になっていた。 1260年前の天平13年、聖武天皇の詔勅で国分寺の大伽藍が全国各地に建設された。ここにも絵のような●七重の塔などの大伽藍が建てられた。現在その礎石などが発掘されている。ちなみに現在の国分寺は、北側に薬師堂として残っている。

■府八幡宮~東町
●府八幡宮  

 遠江国分寺跡向かい側には「府八幡宮」と呼ばれている神社もある。ここも歴史のある神社で、奈良時代に「桜井王」が近江国の国司として赴任した時、国府の守り神として祀られたのが始まりだという。現在の●楼門は寛永一二年(1635)建立の純和様建築様式門で県指定文化財。祭神は応神天皇、神功皇后、仲哀天皇で本来の比売大神と仲哀天皇とが入れ替わっている。

 ■東町~森下
 府八幡宮を出ると東海道はさらに南下を続けて、現在のJR磐田駅方面に向かって進む。 途中からは商店街も活気を帯び始めるが、駅手前の「東町交差点」で直角に右折する。西に向かい坂を上がり下がりして、●中泉公民館あたりが「中泉」と呼ばれる立場で賑わった場所に出る。松並木が所々に見られる旧道を歩くとやがて右手に「日産」のディーラー見えてくる。その脇の一里塚は●「宮之一色の一里塚」と呼ばれていて、階段で上がれる

 松並木の残る街道をしばらく歩き続け、「JA豊田支店」前を通って、交差点から国道と分かれて左手に入っていく。右手に●若宮八幡宮がある。相撲の土俵がある、地区の郷社である。  13:00
●長森立場付近
 その先進んだあたりは長森立場と言い、天竜川手前に位置していたので、川越をする人々や反対に越えてきた人たちで賑わった。又ここの名物は「膏薬」で・・・万治年間(1658~1660)から、山田与左衛門家で作り始められた家伝薬で、冬季にできる「あかぎれ」や切り傷などに抜群の効能があるとして、近隣の村人は元より、参勤交替の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちの土産品として大変な人気を博しました・・・と。しかし現在ではすっかり住宅地となって賑わいは見られない。

 ■森下~天竜橋
 道標の立っている先の丁字路を右折して行く。 丁字路を右折してしばらく歩くと、右手に小さな公園があるが、ここには●「天龍橋跡」の碑」がある。 この碑は明治になって架けられた「木橋」を説明した物で、当時の橋は橋銭(有料)を徴収していたという。  
 天竜川橋を渡って行くが、天竜橋手前は工事中で、通行止めとか、いろいろゴチャゴチャとしており、右往左往して橋へたどり着く。

●天竜川を渡る  13:20
 天竜川は流れも急で水深もあり、大井川のように人夫による川越が不可能で渡船によった。その為川越はそう困難ではなかった。広重の「見付」の絵はこの天竜川の渡しの場面を描いている。
 ★渡船場について・・・東海道の渡船場はこの長森ではなく、ここから北へ1.5kmほど行った池田という所にあった。東海道としてはちょっと遠回りではあった。歴史資料館も池田にある。
 ●天竜川歩道橋・・・以前はこの橋には歩道がなく、車道もせまく、現代の「難所」と言われるくらい危険な場所であったが、最近歩道橋ができたので一安心。現在の天竜川はダムのせいで水量があまりない。

 ■天橋~安間橋
 天竜川を渡り、左折して土手沿いを行く。。 「六所神社」が見えてくるが、この付近には船橋跡、木橋跡、舟渡し跡なども残っている。この先の街は落ち着いた雰囲気の静かな旧道らしい通りであった。
●金原明善の生家」と「明善記念館」  13:50
 道の両側に「金原明善の生家」と「明善記念館」があるが、この人は天竜川の治水に尽くしたこの地域の地主であった。この人が偉かったのは川を守るにはまず山を守らなければいけないと考え、植林に力を注いだことだといわれる。治水にはまず森の保全が必要なことは現在でも理解されてきているが、明治時代でもこのような人物がいた。

 安間橋~天竜川駅入口
 生家を出てしばらくすると旧道は県道312号線に合流しているが、付近は「安間」と呼ばれていた場所で、交差点の三角地帯に●「安間の一里塚」がある。但しこの標識は半分すり切れて読みづらい。この安間から本坂越え道(姫街道)の入口があり、見付からの街道に合流して御油に向かう。旧道をしばらく歩くと、右手には「六所神社」があるが、ここから先の旧道は一本松通り」と名付けられているように、昔は松並木があったようだが現在は数本だけ。

 天竜川駅入口~浜松駅
 やがて右手に巨大な建物が出現してくるが、これは●「浜松アリーナ体育館」。やがて「芳川」に架かる「琵琶橋」を渡る。 東海道はやがて天神町に入るが、左手にある「浜松東警察署」を越えると、植え込みの中に「一里塚」跡がある。ここの一里塚は馬込橋の手前にあったので●「馬込の一里塚」と呼ばれていたようだ。安間から1里が経過した。約1時間であるのでまあ普通のペースだ。浜松市街地なので淡々と進む。  14:50

  すでに前方に浜松アクトシティのタワーが見えているのだけど、駅近くで撮影しようと思っていたら、肝心なときは強烈な西日で真っ黒な写真しか撮れなかった。一里塚跡を越えると先は相生町に変わるが、その先に架かっていた「馬込橋」渡ると浜松宿になる。
 ★反省 
 
これで今回2泊3日の東海道の旅は終わります。夏のつもりで1日30キロの予定を立ててしまって、ゆっくり見ることもできずミスしました。1日20キロ程度が良いと思います。駅前に●「はままつ冬の蛍」というイベントの案内がありました。15:20          浜松より新幹線で帰宅。

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