蕨宿から浦和宿
      歩行地 図
 蕨宿入口-本陣資料館-和楽備神社-錦町三丁目-六辻-調神社-浦和    5.1 km

板橋しゅくの絵2 蕨宿
 日本橋からの距離は4里28町(18.77km.)。京都から江戸に入る場合、「戸田の渡し」の手前にあるので、川が増水すると「川止め」となり、当宿に逗留せざるを得ず、そのため比較的大きな宿場であった。

本陣2 脇本陣1 旅篭23

2017年5月4日の続き  改訂版
■蕨宿入口~
 戸田橋で渡り蕨市に入ってから国道17号線は左へ曲っていくが、蕨宿は真っ直ぐ進む先にある。入口左手に●中山道蕨宿の大きな石碑が立つ。
 ●入口には案内木柱が立って旧宿場の雰囲気を醸し出して好ましい。宿内に入ると早速右手に●旧家が一軒建ち、景観建築物の指定を受けている。       9:55

~本陣資料館
●宿内の町並み。蕨宿は慶長17年(1612)に開設された。地元では保存の意欲が感じられ、色々とイベントが盛んに行われているようである。市立歴史民俗資料館などもあり、比較的よく整備されている。
 左手の旧家は●市立歴史民俗資料館分館といって、明治時代に織物の買継商をしていた家を公開しているもの。 木造平屋寄棟造り。本日は祝日なので閉館中。その先左手には●八百市商店。店舗部分にはシャッターが下りているが、建物は明治時代ではないかな。 10:00

★蕨市歴史民俗資料館
   その先左手には●市立歴史民俗資料館がある。ここも閉館で残念だったが、前来た時は開いていて、隣が●本陣跡になる。資料館では蕨宿と、幕末から昭和20年代にかけて盛んに行われた綿織物業について中心的に紹介している。旅籠や商家、本陣上段の間の一部の復元など、当時の様子を再現されていた。
 連結して隣が本陣跡である。「中山道蕨宿」と刻まれた標柱が建っていて、復元された本陣の門がある。 本陣跡は一の本陣と呼ばれた岡田加兵衛本陣の跡である。●宿のお食事。今回は開いていなくて見ていないが、展示物に変化がないとすれば、江戸時代の旅籠で出される食事のメニューが模型で展示されているはず。蕨宿で出されていたもので、麦飯と味噌汁、野菜の煮付けと卵及び竹筒に入ったお酒が出た。当時としてはご馳走ではなかったかと思う。   10:05

★和楽備神社・蕨城跡
 資料館の先を右折すると、蕨役所があり、その右に●●和楽備神社がある。社伝によれば、室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、渋川氏が蕨城を築き、その守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりで、江戸時代には「蕨八幡」とか「上の宮」と呼ばれ、「中の宮」(氷川社)、「下の宮」(氷川社)と共に蕨宿三鎮守として重きをなした。 三学院末成就院が別当として祭祀を掌ったことがあるという。
 神社の裏側一帯が●蕨城跡にあたる。南北朝に渋川氏が居をかまえ、大永4年北条氏綱によって破壊され、跡地に家康が御殿を置いたという。今は公園になっているが、●掘割りの一部が公園の池として残り、また土塁の一部分が残るだけである。   10:20

■和楽備神社~三学院
 宿内には旧家風な家がちらほら残っており、雰囲気が良い。左手に●「むらろく」という料理屋さん。右手の●「鈴木薬局」という古い看板が架かっている建物は昭和のもの。 軒下に「ギャラリー河内や」の看板も下がり、ギャラリーも併設されている。
 その先天保年間の創業だとい手作り煎餅の●萬壽屋。今日は中で童謡を歌う会などをやっているようで、ちょっと寄るような感じではなかった。萬壽屋の角を曲がると三学院への参道が続いている。    10:25

★三学院
  参道の奥が三学院真言宗智山派智積院の末寺で金亀山極楽寺三学院という。歴史は古いが建物などは比較的新しい。●仁王門をくぐると相当大きな●本堂が目に入る。鉄筋コンクリート製のようだ。●三重の塔も平成の時代のもの。弘法大師像も12尺というから、3.6mで何もかもスケールが大きな寺である。
 本尊が十一面観音で秘仏である。総門を入った脇の小屋の中にあるのが●子育て地蔵で、高さは2.4mあり、蕨市最大の地蔵尊になる。脇に●目疾地蔵なるものもあって、目に味噌を塗ると目の病気にかからないなどと云われ、現在でも味噌が塗られていて面白い。

■三学院~錦町三丁目交差点
 寺を出ると●街道は左へ傾斜して行き、正面に見える旧家は徳丸邸という。国道17号に出る手前、左手にある小公園が●中山道ふれあい広場といって、火の見やぐらに摸した時計台と大名行列を描いた壁画がある。●隣の交番も宿場らしくレトロな造りとなっている。
 国道17号を越して真っ直ぐ進むが、左手に●旧家がいくつか残っている。   10:50

■錦町三丁目~六辻
 しばらく進むと右手に●「一六橋のいわれ」という看板が立っている。それによると、このあたりでは一六市が立ったところで、目沼代用水の支流、一六用水に架かっていた長さ五尺の石橋だったという。
 その先「さいたま市」に入り、外環道の手前、辻一里塚公園があり、その名前通り角に●一里塚の石碑が立っている。中山道5番目の一里塚跡である。 左手奥に木曽名所図会に「辻村に熊野権現のやしろあり」と云われた熊野神社がある。その先国道17号にぶつかる手前に●六辻水辺公園というのがある。  11:30

■六辻~調神社
 国道「六辻」交差点を越して、すぐの所を左折すると、「根岸」に入り、上り坂になる。 この坂は●焼米坂と呼ばれ、坂を上がったちょうど武蔵野線の上部あたり●焼米坂の石碑が立っている。このあたり、「やき米」を食べさせる茶屋が数軒があって、名物だったのでここから坂の名前がついた。焼米とは「雷おこし」のルーツのようなもので旅人の携帯食として、たいへん重宝がられたという。 左手に●立派な門を持つ旧家が一軒。 さて いよいよ浦和岸町に入って、調神社が見えてくるが、手前に●日蓮聖人駒つなぎのケヤキというのがある。日蓮上人が佐渡に流される途中、この地でケヤキに馬をつなぎ安産祈祷したと伝えられる。本物は切られて残った根本部分だそうだが。  12:15

★調神社
 ●鳥居のない神社として有名で、●狛犬ではなく兎が置かれている全国的に珍しい神社である。調とは「租庸調」の調のことで、いわゆる調布のこという。武蔵国の調はここに集められ、この神社はその倉庫脇に建てられたとのことで創建は10代代崇神天皇の頃という。その後、「つき」を月信仰と結びつき、月の連想から兎が登場して、狛犬の代わりに狛兎となり、●手水舎などいろいろの所に使われている。●社殿は権現造で安政5年(1858)の造営。鳥居の笠木がないのは調布の搬出に不便であったからという。
 ここをすぎるとまもなく浦和宿の始まりです。    12:30

 1板橋宿  3 浦和宿