43妻籠宿から馬籠宿へ 歩行地図
 馬籠宿上入口-本陣跡-下入口-馬籠城-荒町-新茶屋-医王寺-落合宿  3.9 km
43 馬籠宿
  文豪「島崎藤村」ゆかりの馬籠宿は贄川から始まる木曽路十一宿中、最後の宿場である。馬籠峠下の傾斜地に成立した宿場であるが、古くから信濃への入口としての役割があったようである。妻籠宿同様鉄道、幹線道路から取り残されて寂れていた。しかも明治28年、大正4年と二度にわたって大火に遭い、宿場時代の建築はほとんど失われてしまった。しかし島崎藤村の生地でもあり、小説「夜明け前」の舞台であったので、脚光を浴びるようになって、古い佇まいが復旧され、観光地として大いに賑わっている。地理的には岐阜県中津川市に近く、平成17年長野県から岐阜県中津川市に越県合併されている。
 本陣1 脇本陣1 旅籠18

2009年7月26日妻籠宿の続き
陣場~馬籠宿入口
 馬籠宿展望台
 陣場坂から馬籠宿へ入る直前、その先の展望台のある所一帯は「陣場」といい、小牧長久手の戦いの時徳川勢が馬籠城を攻めるためここに陣を敷いた事によるとか。
 平成17年長野県側にあった馬籠宿は合併により岐阜県中津川市馬籠となったのを記念して展望台が造られた。ここから恵那山がよく見え、眺めも良く、馬籠宿は峠に沿って造られたのがよくわかる。また島崎正樹の碑が立っている。 10:45

 宿場東の入口、陣場坂を上がってきた所に復元された高札場があり、木曽代官により毒薬・キリシタン禁止・徒党禁止等の高札が掲げられています。
 宿は「高札場」を越えて、県道の「陣場」バス停脇の「上入口」から宿に入っていきます。
 宿場は東から西方へ坂を下った両側に造られていて、民芸品の店、旅籠風な喫茶店など夏休みの日曜日なので人では多かった。

馬籠宿入口~本陣跡
 馬籠宿の町並
 宿場は傾斜地で 斜面に石垣を築いて造られている。建物は明治28年の大火でほとんど焼失してしまい、現在見られるのは復元されたもの。電柱の撤去など景観の整備が図られ、お土産やさん、飲食店が多く、観光客で賑わっていた。
 脇本陣史料館
 脇本陣蜂谷家跡に建つ資料館。
 部屋数1.2階合わせて16部屋あったものが、明治の大火で焼失。館内には宿場資料や「上段の間」が再現され、入口に「山口誓子」の句碑があります。  11:10

 大黒屋
 大黒屋は明治までは造り酒屋、10代目大脇兵右衛門信興は44年にわたり、「大黒屋日記」を書き続け、藤村の「夜明け前」の創作資料となった。藤村の初恋のおゆふさんの生家でもある
 馬籠本陣跡・藤村記念館
 本陣特有の冠木門、黒塀を巡らし、島崎家が務めた旧本陣は藤村の生家だった。その本陣跡に藤村記念館が建つ。中には藤村像や年譜等が展示され、大火で焼け残った隠居所、藤村の原稿や蔵書など展示されているというのだけど中に入っていない。
 記念館の裏手、向かいの丘にある島崎家の菩提寺永昌寺も時間が無く行けなかった。 

  本陣跡~馬籠城址
清水屋資料館 島崎家と共に宿場役人を務めた原家。藤村の小説「嵐」に登場する「森さん」は8代目一平氏がモデルといわれる。館内には藤村の書簡や宿場の古文書を展示している。
西の枡形 
 宿も終わりに近づき、西の入口の左に曲がる坂道はいわゆる枡形で、明治時代に道路改修により消滅したが、昭和60年代に復元された。写真右が新道、左の階段の方が旧道。   11:25

 枡形を過ぎると馬籠宿も終わりになり、下入口にある大きな駐車場、みやげもの店の脇を通り、まっすぐ落合宿へ向かうことにする。宿を離れてしまうと静かな道になり、通る人もいなくなってしまった。
 右手に馬籠城址がある。
馬籠は武田氏が領し、その後木曽義昌が治めていた。小牧長久手の戦いで秀吉と家康の対峙の場となり、馬籠城は島崎重通(藤村の祖)が警備していたが、家康の大軍に攻められ、重通は夜陰に紛れ妻籠城に脱出。おかげで馬籠宿は戦火から逃れられたという。その後廃城になりました。   11:35

馬籠城址~新茶屋
 さらに進むと、左手に「諏訪神社」があり、延々と参道が続くのでとても寄ることができず、入口の島崎正樹顕彰碑だけ眺めておく。島崎正樹は藤村の父親で馬籠宿本陣当主であり、小説「夜明け前」主人公青山半蔵のモデルとなった人物。
 神社を過ぎると道は下り坂になり、やがて右手に
正岡規の句碑
 ・・・桑の実の木曽路出づれば穂麦かな・・・
  明治22年正岡子規は松山に帰郷の折り、木曽路を越えている。その時に詠んだ句。馬籠観光協会によって建立。碑のある場所からは中津川の風景が一望でき、地理的に中津川の方が近いということがよくわかる。 11:50

 さらに坂を下り、新茶屋集落に入る。このあたりが美濃(岐阜県)との県境にあたり、江戸初期に岐阜県側に立場茶屋があって、後にここに移ってきたので「新茶屋」といわれている。名物のわらび餅を売っていたと伝えられる。
 ここには「芭蕉の句碑」。両側に新茶屋の一里塚 「是より北 木曽路」の碑 などが建つ。
 木曽路の碑は島崎藤村の揮毫による物で、昭和32年の建立になる。贄川から始まった木曽路の最終地がここであり、ここから西、「落合宿から「今須宿」まで十六宿の中山道を「美濃路」と呼びます。12:00

新茶屋~医王寺
 十曲峠・落合の石畳
  新茶屋の先が難所で知られた十曲峠(じゅっきょくとうげ)で昔のままに「石畳道」史跡として残っている。 右側に石畳道が林の中に続いていて、「落合宿2.0km」の標識に従い、まっすぐ下る。が、最初の石畳道120m平成の合併を記念して造られたも遊歩道で、史跡の「石畳道」ではないようだ。
 下りて行き、大きな「案内板」から先の約840mの石畳道が復元された石畳道で、途中の3ヶ所、70m程が発掘された当時のものという。この石畳は箱根と同様、滑りやすく、けつまづきそうで、ちょっと歩きにくく、足下を見て歩かなくてはいけない。それにしてもかなりの急坂で、下りるのもつらいけど、上がってくるのはもっとつらそう。石畳の案内図   12:06

 長い石畳を終えると、坂もゆるくなり、左手に医王寺が見えてくる。寂しそうに建つ寺ですが、これが三河の鳳来寺、御嵩の願興寺とともに日本三大薬師の一つと言われているそうで、古来より虫封じの薬師として広く信仰を集めていました。山中薬師ともいう。
 本尊の薬師如来は行基の作と伝えられます。
 また刀傷に良く効くという「きつね膏薬」は中山道名物となっていた。
 境内に嘉永6年(1853)建立の芭蕉句碑が建っている。・・・梅が香にのっと日の出る山路かな・・・
と刻まれているとのことだが、苔むしてほとんど読める状態ではない。 12:25

医王寺~落合宿
 医王寺を出ると、先は再び下り坂で、それもかなりの急坂で、疲れ気味の脚にきいてくる。しかし京方からやって来ると上り坂なわけで、昔の人はかなり難儀したのだろうと思う。そこを下りて行くと「落合川」に架かる「下桁橋」が見えてくる。この橋から医王寺までは難所の為、何度か道が付け替えられたことが案内板に書いてある。
 先に進んで、落合宿の枡形跡を右折すると「落合宿の常夜燈が見える。  12:45

 
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