66 武佐宿から守山宿へ   歩行地図
 武佐神社-武佐駅-六枚橋-横関橋-鏡-小堤-桜生公園-小篠原-野洲川-守山  15.8 km
66 武佐宿
 武佐宿の西方に「近江商人」で有名な「近江八幡」があり、武佐とはお互いに関係があって、商人や物資の往来が活発で、武佐は市が立つほどであった。また武佐は鈴鹿山系八風峠を越え伊勢に至る八風街道の追分けもあり、塩・海産物、紙・布など物資の往来で賑わった。宿の長さは8町24間(約900m)ほどであった。
本陣1 脇本陣1 旅籠が23

2010年1月29日老蘇神社から
武佐神社~武佐分署
  大門跡から入るとすぐ右手に見えてくるのが「武佐神社」で、ここは元々「市神大明神」とも呼ばれ、古くから市が立ち、宿の氏神様として信仰されていた。神社入口左手に見られるのは「高札場跡」で、武佐宿では宿内の案内板は武佐小学校の卒業生により書かれている。

 武佐神社を出て進むと古い家がいくらか現れてくる。右手には「平尾家宿役人宅」というのがある。二階が低い塗篭壁で格子造りで、この先にある大橋家と共に武佐宿場を取り締った役人の家」であった。
 その先、右手に立派な「武佐町会館」が奥村家脇本陣の跡で、当時は建坪64坪の建物があったという。         9:17

武佐分署~武佐駅
 左手に旧八幡警察署武佐分署庁舎というのがある。明治19年建築の登録有形文化財ということ以外に説明がない。滋賀県にはヴォーリズ設計の洋館が沢山あるので、その影響かもしれない。
 左手の古い家は「大橋家」で、説明によると当時は米や油の商屋で、宿役人でもあった。

 大橋家の右隣には今も旅館業を営んでいる旧旅籠の中村旅館」がある。
 向い側、右手に「郵便局」があるが、ここが下川本陣跡で、隣に門だけが昔のまま残っている。本陣は郵便局に変わってしまったが、ここは昔風にデザインされていて、愛知川宿で見られた「黒ポスト」も置かれている。
9:26

武佐駅~六枚橋
 右手の愛宕山の常夜燈と「高札場跡」を過ぎると道路は曲がって宿はずれになってしまう。この付近は枡形道」になっていて、突き当りに近江鉄道武佐駅」がある。線路を越えて進みむと、右側に大きな楠が一本だけ立つ公園があり、ここは「伊庭貞剛翁生誕地」という。伊庭貞剛は「別子銅山」の支配人として、移転問題、植林に力を尽した人物。

六枚橋~八幡神社
 
旧道はやがて「西宿町信号」で国道8号線と合流し、国道をしばらく行くと「六枚橋信号」に出る。六枚橋の名は寛永20年、時の領主によって架けられた橋が「六枚の板橋」だったということによる。
 ここを左折し真っ直ぐ行くと、右手奥に「千僧供古墳群 住連坊古墳」というのがある。墳丘径53mの滋賀県下最大級の古墳である。後で見る、「住蓮坊」の「首洗池」で首を切られた「住蓮坊」が葬られているという。  10:05

 古墳から六枚橋の方へ少し戻り、角に石碑のある所を奥に入っていくと、右手に小さな池があり、案内板が立っている。ここは「住蓮坊」の「首洗池」と呼ばれている。
 住蓮坊は「浄土宗開祖」の「法然」の弟子であった。当時浄土宗と興福寺など既成教団と争いがあり、浄土宗弾圧の影響を受けて、弟子の「安楽坊」は京都の加茂川で首を打たれ、この付近出身だった住蓮坊はここの池のほとりで処刑され、この池で首を洗ったそうである。    10:15

八幡神社~横関橋
  すぐ先で国道に出て、左折して行く。白鳥川にかかる千僧供橋を渡ると、左手に立派な茅葺き屋根を持つ「奥野家」が見える。
 「馬淵町」信号の右手に「八幡神社」がある。鳥居は笠木に瓦が乗った珍しい形をしている。本殿は、信長の兵火後文禄5年(1596)に再建されたもので、総丹塗りで、彫刻には彩色が施され、桃山時代を代表する本殿であると。神社の角からから右手に残った旧道へ入って行く。  10:33

横関橋~鏡神社
 旧道はあまり人が通らない静かな道で、右手には茅葺き屋根の家などもあり、回りは水田だった。やがて「日野川」に突き当る。昔は渡し場で、普段は船で渡り、水量が減った時は川岸に杭を打って二般の船を繋げ、「船橋」にして渡っていたという。広重」の武佐の絵はこの渡し船の様子が描かれている。突き当った所に絵と案内板が立っている。現在は遠回りをして、「横関橋」を渡り対岸へ出た。   11:10

 対岸の集落は「西横関」と呼ばれ、右手の「若宮神社」など見ながら進むと西横関信号で国道に合流する。角には「道標」が残っていて、「是よりいせみち みなくち道」と彫られ、ここから水口や伊勢に行くことができた。
 善光寺川を渡り、左手に入って行くと、「鏡」という所で、鏡は鎌倉時代の宿駅で、規模が大きく、間の宿の性格を持っていたといわれ、旅籠の「京屋跡とか、亀屋跡とかの看板が立っている。   11:40

 ここはすぐ国道に出てしまうが、道の左右に「旅籠吉田屋跡」「桝屋跡」なども残り、本陣跡もある。正式な宿場ではないので、泊めることはできず、茶屋本陣というべき性格であろう。
 またこの地域には鎌倉時代に栄えた証拠とも言える義経伝説が数多く残っている。
 国道の右手には「義経宿泊の館跡」がある。鎌倉時代、旅籠「白木屋」があった所で、ここで元服をしたという。牛若丸から義経に変ったということだ。

鏡神社~小堤
 少し先の右手に鏡神社」がある。新羅から帰化した人たちが自国の王子「天日槍」を祖神として祀ったことに始まり神社である。義経が元服したとき被っていた「烏帽子」を掛けたという「烏帽子掛け松」も入口に残っている。
 本殿はこけら葺で南北朝時代の建築で国の重要文化財に指定されて、美しい形をしている。神社の前が「道の駅 竜王かがみの里」で、昼食をとることができた。神社の隣、国道脇に義経が池の水を使って、前髪を落して元服した時の「元服の池」という小さな池が残っている。    12:30

小堤~桜生公園
 「道の駅」の先から旧道は左へ入って行く。旧道は「出町」と呼ばれていて、左手に大きな「明治天皇聖蹟」碑も立てられている。ここはすぐ国道に出てしまうが、すぐ左手の奥へ入った所に「平宗盛胴塚」というのがある。ここは「平家の終焉の地」といわれている。平家は壇ノ浦で滅びたといわれるが、平家総大将の「宗盛」と、その息子「清宗」は捕らわれの身となって、護送途中、ここ「篠原」で処刑されたと伝わる。首は京都に運ばれたが、胴塚がこの地に築かれた。
 国道を行き、「浄勝寺前」から右手へ入り、また国道に出ると、目の前に「西池」の堤防がある。さらに小堤」で国道から分れ右手へ入って行く。   13:15

 旧道を歩くとやがて「天井川」になっているという新家棟川が見えてくる。ここはトンネルをくぐるはずと思いつつ近づくと、ができていて、トンネルは消えていた。脇にいろいろ看板があって、平成7年度から工事が始り、天井川の河床を10m切下げ、平成19年度に平地河川化が完了したということだった。渡った先にも看板があり、昔のトンネルの写真が出ていた。右手に「篠原神社」がある。

桜生公園~小篠原
 右手に「地蔵堂」を見て、進むと「桜生史跡公園」がある。このあたり、古墳の多い所で、大岩山古墳群のうち、六世紀を中心とする、天王山古墳、円山、甲山古墳で公園を作っている。甲山古墳の石室が公開されている。
 先に進んで、左手の国道を渡った所に「稲荷神社」があり、ここの本殿境内にいくつもの神社が合祀され、古宮神社本殿は室町時代の建立で、国の重要文化財に指定されている。   14:05

 旧道に戻って、右手に曙酒造の美しい茅葺きの家がある。やがて新幹線ガードをくぐると「野洲駅」が近い。「野洲小学校」の前が5叉路になっており、「中山道・外和木(そとわき)の標(しるべ)」という案内板があり、中山道が「大化の改新」以前から重要な道であったということがいわれている。
  少し先「行畑」交差点の左手のポケットパークにあるのが「背くらべ地蔵」で、鎌倉時代の作で、東山道を行く旅人を守った地蔵であり、子供の背丈が地蔵くらいになれば一人前と、背競べさせたことからこう呼ばれている。   14:30

小篠原~野洲川橋
 交差点の左には近江富士として知られる「三上山」が見えた。藤原秀郷による大ムカデ退治伝説が残ることでも有名。
 右手に蓮照寺という寺がある。門を入った右側に3つの「道標」が保存してある。
 JR「東海道線」のガードをくぐると、右側に「十輪院」というお堂があり、扉の右側に「芭蕉句碑」がある。   14:47

野洲川橋~守山
 野洲川橋を渡ります。渡った先、右手に「式内 馬路石辺神社」の石柱がたっているが、神社は奥にあるので通過した。
 吉身三丁目交差点を越えるあたりが守山宿の加宿の東端であったというので、守山宿の入口であると考える。
15:05

 
 65 愛知川宿へ
 
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