21小田井宿から岩村田宿へ 歩行地図
 小田井上宿−小田井下宿−咬月原−宇な沢−住吉神社  4.2 km
21小田井宿
 この宿は天正年間に誕生し、慶長以降宿としての機能が整えられた。しかし木曽名所図絵に「駅内二丁ばかり、多く農家にして旅舎少なし、宿悪し」とあるようにかなり小さな宿であったとうかがわれる。しかし小田井には「飯盛り女」がおらず、他宿と違って女性連れや子供連れには人気があり、特に「公家」や「お姫様」達の間で評判が高く、「姫の宿」と呼ばれることもあったという。最盛期には宿間七町ほどに広がっている。
本陣1 脇本陣1 旅籠 

2008年7月5日追分宿の続き
■小田井上町〜小田井下町
●宿の入口にある筆塚
  筆塚」とは筆を供養してここに埋めたものだというもので、あちこちにある。由来などは、解読できず、わからなかった。
●小田井宿町並み
 本陣跡、上・下問屋跡、旅籠などが残され、用水も残されており案内板も設置されている。昔、信越本線の通過に反対したそうで、発展から取り残されてしまったが、そのため往時の宿場の面影は残っている。13:20

●宝珠院のアカマツ
 街道のすぐ左手の宝珠院のアカマツは派手さはないが、町指定天然記念物の立派なものだ。
●本陣(安川家)
 1756年の建築で、近年大改修が行われたそうである。安川家は江戸時代を通じて、小田井宿の本陣をつとめた。公開をしているかどうかわからないが、入れるような雰囲気ではなかった。説明  13:32

●上の問屋
 本陣と同じく、安川家が勤めた。江戸後期(享保・文化の頃)もの。切妻造りで、屋根は板葺で現在は鉄板葺。荷置場・帳場・客室部・廐・土間などがよく保存されているという。

●脇本陣跡
 「すわまや」といったが、建物は現存していない。民家の庭先に案内柱のみ立っている。


●下の問屋
 もう一軒の問屋。尾台家が勤めた。明和9年(1772)の大火以降のもの。こちらは白壁できれいに保存されている。
 宿もはずれに来ると、枡形に曲がって
終わりとなる。ほとんど人通りはなかった。

 13:40


■小田井下町〜咬月原 
 宿を出ると右手には旅籠のような、古い家も残っている。その先左手には古くから「飴」を作っている店(小林製菓)が見られ、小田井下町の信号を越えた先には「馬頭観音」や「道祖神」などがまとめられている。おそらくこれらは街道に置かれていたものだろう。
13:45

 小田井宿を過ぎ、国道と合流すると、右手に●咬月原(こうげつはら)という昔は大草原だったという場所がある。。用明天皇の年(586年頃)、咬月という官女がお咎めを受けて流されてきて、白馬を乗り回していたが、この白馬が天の竜馬で、官女は、この白馬に乗って空へ駆け上がり、平尾山山頂で「吾は白山大権現なり」と称して岩の中に入ったという伝説がある。咬月が輪乗りをした跡は、草が生えなかたという。●隣の歌碑は享保七年(1723)小諸藩の馬術師範で皎月原で押兼流馬術を習得したと伝えられる押兼団衛門長常という人のもの。 説明板 13:55

 岩村田まで国道沿いの道が続くが、暫らく行くと左手に、初期の中山道の道筋を示すという、●鵜縄沢端一里塚がほぼ原形をとどめて残っているというが、荒れていて、実際はなんだかよくわからなかった。この辺りは、佐久インターができた関係か、左右に新しいスーパーなどが林立して賑やかだ。「佐久IC東」交差点を越えると左手に見えてくるのは●「住吉神社」。大阪の住吉大社と同じように、底筒男命、中筒男、表筒男命の住吉三神を祀る神社です。海の神様がなんで、このような地方になんで?という感じはする

 参道の階段を上がると、珍しい「●溶岩で作られた常夜灯」が立っている。形はあまり格好良くない。その隣は、善光寺道の道標が移設されている。もとあった場所は、この先右手にあり、交通事故で破損したため、複製が置かれている。奥の境内には大きなこぶを作った、樹齢400年のケヤキだかカシだかの木があり、木の幹は空洞で「住吉の祠」といわれているそうだ。さて次の「岩村田宿」の入口はこの住吉神社を越えたあたりにあったという。

14:40
「「岩村田宿」へ続く。
 

 
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