45 中津川宿から大井宿へ  歩行地図
 茶屋坂-新町-本町-駒場-上宿-六地蔵-千旦林-中平-茄子川-岡瀬沢-甚平坂-大井  10.6 km
45 中津川宿
 奈良・平安時代から東山道の要衝の位 置にあり、古くから穀物、塩、味噌、酒、小間物、呉服、紙などの商業活動が盛んで、 周辺の人々を集めた六斉市を開くなど、江戸時代には中山道でも有数の宿場として賑わっていた。
 茶屋坂、新町、本町、横町、と続き、町並みの中央を流れる四ツ目川をはさんで、商家が多い新町と、本陣、脇本陣のある本町とに大きく分かれていました。
本陣1 脇本陣1 旅籠29

 2009年8月23日 東京から夜行バスで春日井まで、春日井から中津川駅まで中央線に乗車して、中津川着が7時35分でした。本日は中津川から一気に細久手まで行き、尾張藩本陣だったという「大黒屋」さんに泊ります。普通は大井から細久手まで20㎞程度を行く人が多いらしいが、それだと中津川から大井間10㎞くらいで1日を終えなければならず、もったいないので、思い切って細久手まで30㎞を行ってしまおうと思った。しかし途中、「十三峠におまけが七つ」という山道になるので無理かと思ったが、歩いたというホームペ-ジを見たので歩いてしまうことにした。
 「木曾の五木」
 駅を出ると「木曾の五木」が植っていた。ヒノキ、サワラ、ヒバ、ネズコ(クロベ)、コウヤマキを木曾五木というそうで、尾張藩は私有林でさえも伐採を禁止したほどであった。
 さて前回の写真と合わせ中津川宿から再開するとしよう。 7:45

高札場跡~新町
旭が丘公園から坂を下りて横断歩道を渡り回り込んできた所に高札場が復元されている。常夜燈、庚申塚、三十三夜塔が並んでいます。  高札場から本町へ中山道は真っ直ぐに続きます右手に肥料を売る古そうな店があり蔵が倉庫になっています。ようやくきついアップダウンのある坂から解放されたような気がしてほっとする感じだ。 

新町~四つ目川橋・本町
 駅前通りを横断して新町へ入ります。ここは商店街らしいけど朝早くまだ閑散としています。
 通りへ入ってからすぐ左手に栗きんとんで有名な「すや」がある。創業は元禄年間で、初代は武士でここに住みつき、酢の店を開いたので「すや」という。中津川宿の酢は、中山道でも有名だったらしく、大田南畝は、この宿場に酢をひさぐ「十八屋」があることを、「壬戌紀行」に記しているとか。江戸末期に7代目が菓子を作り出し、8代目から「栗きんとん」を売るようになったという。 7:56

 新町を行くと左手に「間家大正の蔵」というのがある。中津川宿は物資の集積地として賑わい、経済の中心地で、間家は白木、白木製品、塩の販売で当時東濃随一の豪商といわれていた商人であった。
 この「間家大正の蔵」は従来の土蔵づくりと明治以来のコンクリート工法が混在した珍しい建築(大正3年)で、古さでは岐阜県有数の建物です。見学可能のようだったけど朝早く開いていなかった。
 四ツ目川に架かる「四ツ目川橋」を渡ると宿の中心地であった「本町」へ入ります。  8:05

四つ目川橋・本町~横町通り
 本町
 左手に宿の案内板があり、それによるとこの辺りが中津川宿の中心地で、四ツ目川には水面近くに板橋が架かっており、東から来た旅人はこの橋を渡って、本町までの急な坂を登りました。登りつめると、街道の真中を用水が流れていました。この用水は宿内の火災に備えて敷設され、ものを流すことも、洗うことも禁じられていました・・・・と
  右手には本陣跡があり、「市岡家」が務めた。建物は現存しておらず、その跡は現在、NTTの駐車場となっています。 脇本陣は代々森家が務めましたが建物は現存していません。NTTビルの一部にあったといわれています。

 本陣跡の斜め向かいに、中津川村庄屋・脇本陣を務めた「肥田家」の建物がある。
よく保存されており、本卯建が上がっており、建物の構造体は江戸中期とか。現在では「曽我家」が明治に入居してそのまま住宅となっている。
 その先の枡形を曲がって行くと両側に古い家並が続いて「横町通」という。
 右手に「すや」と共に栗きんとんで有名な川上屋があります。川上屋の屋号は川上川(中津川)にちなんだとか。脇に「右木曾路」とある道標が立っている。 8:15

横町通り~津島神社参道の分岐
 実はこの横町通りをふらふら見ていたら、地元の自治会の廃品回収の時間らしく、軽トラが走り回ってじゃまにされて、ゆっくり見てられず、見逃したのがあった。右に曲る枡形の角にお酒の「恵那山」を造る「はざま酒造」があります。ここも卯建が乗る風格ある建物が続いている。
 その先の中山道の道筋は現在ではほとんど姿をとどめていません。という案内板があった。中津川橋を越えると宿はずれで、その先津島神社参道の入り口の道標の所を左に曲ります。 8:30

津島神社参道の分岐~駒場
 分岐を左折し坂を上がるとすぐ右手に四つの石仏が並んだ名号碑があります。四つのうち三つが馬頭観音で、一つが「南無阿弥陀仏」と彫ってある。
 国道を「駒場」の住宅街を進む。左手に「高札場跡碑」を見て進むと、階段のある「小手ノ木坂]という場所にぶつかる。 「東山道の坂本駅」という案内があって、それによるとこのあたりは古代東山道の坂本駅(中津川市駒場こまんば)のあったあたりで、坂本駅から信濃の国・阿智駅へと通じていましたということであった。  案内板    8:40

駒場~上宿
 階段を上りきると、先に石仏が沢山ある一角があり、名号碑や馬頭観音など数多くあますが、その中に双頭一身道祖神があります。文化13(1816)の建立で、男女別々の頭部を持ち、肩から足元にかけて一体になっている極めて珍しい形のもの。
 少し先に上宿一里塚跡がある。南側の塚は消滅し昭和9年に、北側だけを復元したのが現在のもので、元の1/3の大きさ。
  8:45

上宿~中津川IC
 一里塚の先の道は昔の中山道の雰囲気を出そうとしたのか、薄茶色に舗装がされています。この舗装路の多少のアップダウンをずーと行きます。しばらく特に気になる箇所がないので、スピードを早めておく。  「会所沢」の交差点を過ぎ、国道2本が出会う隙間に入り込み、左手に「小石塚立場跡」の碑が立ち、右手に珍しくコンビニがあり、「嵐讃岐の供養碑」なるものがある。嵐讃岐は木曽家の有力武将の一人で、千旦林に居;をかまえ,千旦林八幡宮(八幡神社)の再建につくした人と{云えられているとか。9:07

中津川IC~六地蔵
 ここから中山道は国道19号線と中央自動車道「中津川IC」建設のために消滅してしまっている。
 旧道との案内地図を書いてある看板の脇の階段を下り、付替歩道を渡り、バス停の先を回り込んで旧道へ合流します。
 旧道に入って右手に六地蔵石幢(せきどう)が立っている。六面に地蔵が六体刻まれた石灯籠の形をした珍しいもの。大林寺への入り口を示すと同時に、水害除けと旅人の道中安全を祈ってきた地蔵という。  9:33

六地蔵~藪下・旧道分岐
 地蔵の先は「千旦林」という所に変る。千旦林は東山道の坂本駅があり、江戸時代は立場で賑わった場所であったという。 坂本神社へ行く参道がある。参道を入った左手に松風義校跡があります。明治新政府による学制にもとずいて開業された学校の跡です。坂本神社は右手の線路を越えた奥にあり、とても行かれなかった。
 更に中山道を西へ進むと新道との分岐点に来るので、ここを左へ入っていきます。(総選挙前で分岐点に政党の看板があったので修正しました) 9:51

藪下・旧道分岐~坂本
 分岐点から先は狭い昔ながらの道で、正面に名前はわからないけどなだらかな山が見える田園風景の中を行きます。左手に「中平神明社」の標識が見えてくる。 やがて右手に将監塚の案内板がある。ただの原っぱだが、案内では・・・岡田将監善同は大久保長安に次いで二代目美濃代官でありました。・・・それほど功績があったとは思えないが、墓のあった場所らしい。次に「三ツ家一里塚跡」があるというので探したがわからずじまい。広い道の角に坂本立場跡の標識があり、鎌倉時代に坂本立場のあった所になる。建物も残っていないが、県道手前の急坂の左手に石仏群が沢山ある。 10:15

 坂本~茄子川
 坂本川に架かる「坂本橋」を渡ると、旧茄子川村に入ります。左手に高札場跡の標識があり、
 右手に尾州白木改番所跡の標柱と説明板がある。ここにも白木搬出の番所があるくらい、厳しくく取り締まり、それだけ利益が大きかったのだと思う。
 茄子川村の町並
江戸初期の茄子川村は、幕府御三家筆頭の尾張徳川家・給人の山村氏(木曾方)・千村家(久々利方)・旗本馬場氏ら八名の入相支配地で、大井宿から中間点くらいにあたるので、大名や公家の休む御小休所が設けられていた。10:25

茄子川~岡瀬沢
 篠原家は、酒造業を営み、茄子川茶屋本陣として参勤交代の大名の休息所も勤めてきた。
 「明治天皇茄子川御小休所、御膳水」と刻まれた石碑も建っている。和宮が降嫁された際もここで休憩をとられたという。
 本陣跡を過ぎると左に「中山道茄子川」の案内板が立っている。そこを過ぎると「恵那市」との境界で中山道ここより大井」の大きな石碑が見えて来る。その少し先の右手の道脇には、小さな馬頭観音があり、胴体が一つに、頭が三つあるもので、あまり見ない形だ。   10:40

岡瀬沢~甚平坂
 馬頭観音の先は下り坂となって、広い道路の「岡瀬沢」交差点の角に「岡瀬澤碑と常夜燈」が立てられている。岡瀬沢は幕末から明治にかけて茶屋や馬宿を営む家が集り、鉄道が開通してからは養蚕や桑の木つくりで、美濃の模範となったという。
  先をいくと上り坂になってきて、甚平坂という坂を上る。急坂だったので、明治天皇の巡幸の際頂上を削ったことで楽になったという坂である。
 坂の名前は鎌倉時代の頼朝の家臣で「根津甚平是行」に由来するという。ここには公園も作られ、いろんな碑が沢山ある。10:58

甚平坂~大井
 甚平坂公園
 急坂だったので頂上付近に茶屋が造られ、その跡には公園ができ、展望台があって、「広重の大井宿」の碑が造られている。展望台から見える風景は広重の絵のとおりとすると、左手奥が「御嶽山」。右手奥が「恵那山」のはず。 隣の句碑は芭蕉句碑と言いたいところ、違って現代の俳人で「橋本鶏二」という、高浜虛子に師事したという人の句碑。公園隣に馬塚と犬塚という塚跡がある。「八重羽」という化けキジを退治するために馬に乗った甚平が鷹と犬を連れて向ったが、馬はここで倒れ、犬も「日吉」で倒れたのでここに葬ったという。  

 公園を出ると左手の階段を上がった所に「根津神社」があり、甚平の墓という宝篋印塔があるというが、先を急ぐのでパスした。関戸に来ると、関戸一里塚碑があります。江戸から87番目の一里塚で、両方の塚とも壊されて跡形もありません。
 一里塚から真っ直ぐ来ると、県道にぶつかり、 その手前、左手高台に「明治天皇行在所御舊址」碑、「大井鬼子母尊神」という石碑が見えた。正善寺という寺があるが廃寺になっているらしかったが確認していない。突き当りを左折していくと「大井宿」に入ります。 11:10

 
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