中 山 道
 





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 28-2 和田宿から下諏訪宿へ  歩行地図
 和田宿-鍛冶足-一之橋-接待-東餅屋-和田峠-西餅屋-桶橋-町屋敷-下諏訪  21.7 km

28-2  和田峠
 中山道最大の難所といわれた和田峠は険しい山の中にあり、江戸側の和田宿と京都側の下諏訪宿の間隔は5里  と長い。このため、途中に何箇所か旅人のための避難所や茶屋が設けられていたほどである。これらの茶屋の跡は「東餅屋「西餅屋」「接待」などという地名に残っている。ここを2008年7月7日に和田宿側から歩き終えた。

 ■和田峠~下諏訪
 和田宿より続く
。 
●旧道入口
唐沢橋」を渡った左手に「旧道入口」が見えてくる。「中山道 」の標識が山道を向いており、峠の入口であるか、悩んだが入ることにした。雨露がひどいのでオーバーズボンを履いた。(ここは古中山道の入口で、本当の入口はこの先でよいらしかった)  草ぼうぼうの山道
●唐沢の一里塚
 すぐに小さな沢があり、小橋を渡り、そのまま歩くと「一里塚跡」が見えてくる。これは「唐沢の一里塚」と呼ばれ、左右に塚が残っているのはとても貴重。付近には出ると「御嶽大権現」の石碑などが並び、出るとすぐに国道に合流してしまうが、国道にも「唐沢一里塚跡」標識が設置されている。  8:50

●和田峠登り口
 「新和田トンネル」へ向かう国道と旧国道が分岐する地点に「中山道碑」が置かれているが、ここが旧道入口で、いよいよ「和田峠」を目指すことになる。「中山道」の標柱が2本と案内板が立っている。
●避難小屋
 細い山道を少し歩くと、使われていないような小屋が見えてきて、隣に鉄柵で囲まれた33体観音というのがあり、かってこの山の中腹の荒廃した熊野権現社前あったものを昭和48年に発掘し、ここに安置したものという。峠を往来する人馬の安全を祈ったものであろう。  9:15

●途中の山道
 一応GPSに経路を入力してあるが、所々に標識がきちんと設置されているので、道に迷うことはなかった。道幅も肩幅くらいということはなく、普通に歩けた。
●接待小屋(永代人馬施行所)
 しばらく歩き、一度国道に出るが、向かいに「接待茶屋跡」が残っている。接待茶屋とは「中村有隣」という人物によって作られた施設で、無料で人に粥を、馬に煮麦を施した。同じ施設は碓氷峠にもあった。建物脇には「湧き水」が汲めるようになっていて、汲みに来ている人によると、お茶とかコーヒーに最適だと言っていた。 9:40

●巡査殉職碑
、小屋の近くに「近藤谷一郎巡査 殉職の地」碑が建てられている。明治22近藤谷一郎巡査が護送中に逃走した犯人を捕まえようとこの付近の谷川で格闘となり、腹部を刺され殉職したということの供養碑際の殉職した場所のはこの先にある。 案内板
●こけむした石
 接待小屋からまた山道に入って行くが、途中に避難小屋も見られる。小屋を過ぎると、苔むした滑りやすい大きめの石がごろごろしている坂に変わってくる。  9:55

●広原一里塚
 そんな苔むした道が途切れて、しばらくすると「広原の一里塚跡」が見えてくる。日本橋から数えて「52番目」のものだったが、塚跡らしきものが1基だけ残る。その先左側に、キャンプ場があり炊事場と屋外トイレが併設されているが開設前で水道が出なかった。
●東餅屋
 道はきちんと舗装された石畳となり、国道と合流して進み、左側に「東餅屋」のドライブインに出た。江戸時代には五軒の茶屋があって繁盛していたが、交通機関が発達して歩く人が減り、すべて廃業してしまったという。しかし立場跡にはドライブインが復活していて、名物だった力餅も売られている。ーヒー付き500円で早速購入して休憩した。主人の話では年間5000人くらいの人がここを歩いているということだった。 10:35

●頂上への登り口
 標識に従い、国道を横断して、階段を上って山道に入る。さらに進むと●「コールゲート」と呼ぶ、トンネルの中をくぐる。このトンネルは長さは短いが、大人が立って歩けるぐらいの太さがあり、中に道と一緒にが流れ、いささか不気味ではあったので走って通り抜けた。
10:45

●ビ-ナスラインを3度横切る
 コールゲートを出ると、ビーナスラインにぶつかってしまうが、実はここからこの道路を3度横切るのが昔の道筋だという。人間が歩いて有料だった道路を横切るというのもすごいかと思う。途中で観光バスに出会ったが、バスのおばさんたちは驚いたような顔をしていた。
◎和田峠頂上
 すぐ和田峠頂上までに達した。この付近冬場には積雪が3メートル近くになるという。これを見れば冬場の旧道は道がどこだかわからず、歩く事さえ困難だったという。現在峠にはわずかばかりの平坦部が見られ、近くには「案内標識」、賽の河原」、「御嶽遥拝所跡碑、「馬頭観音」などが置かれている。頂上からの景色は雨模様のためほとんど意味なく、風が強かった。  10:55

●西餅屋への下り坂
峠に出るとあとは「下諏訪」に向かって下るだけだが、厳しいとは聞いていた、たしかに急坂に加え道幅が肩幅くらいしか無く、おまけに前日の雨で、道が沢のようになり八の字に足を広げて行くこともあり、よく和宮の大行列が通れたものだと疑問に思う。下諏訪町教育委員名の「白杭」を目印に下った。
●西餅屋跡
 40分くらい下り、やがて「西餅屋立場跡」が見えてくる。西餅屋も東餅屋同様、江戸時代は人気立場で知られ、ここには4軒の茶屋があって繁盛していたという。案内板    11:35

●峠出口
 西餅屋立場跡を出ると国道に出てしまうが、HPや資料ではこれからの旧道は極めて危険であり、国道を下ることが勧められている。 本来の旧道は国道左手の下というので、一里塚までくらいは大丈夫と思い、ガードレールの切れ目から下りて見た。
●西餅屋の一里塚
 下り始めるとすぐに53里目の西餅屋の一里塚があった。この先は地震などの影響で崩壊してしまい、通行にはきわめて危険だとHPなどに書かれている。一応行ってみて危なければ戻ろうというつもりで先に進んでみた。なるほど片足くらいの幅の道もあるし、左側は崖のようでもあり、石がゴロゴロしているが、歩くにはそれほど支障があるとは思えない。途中沢があり雨で増水の気配もあるがなんなく飛び越す。ちょっと距離を感じたがそれほど危険とは思えなかった。そのまま国道へ出た。  

●国道「焙烙」
 国道に合流するあたりは「焙烙」という場所になる。この先も昔は現在の国道の左手を流れる川沿いの道を歩いていたが、川に削られてほとんど残っていないという。 11:50
●浪人塚
 ずーと歩道のない国道を歩き、左手の側道から国道下をくぐって、いったん右手に出ると正面に、「浪人塚」碑が置かれている。浪人とは「天狗党」と呼ばれてた浪士のことで、幕末のいわゆる天狗党の乱の際、高島・松本両藩との間で激戦が繰り広げられた跡で、ここに討ち死にした浪士を葬った塚が築かれている。 案内板  12:15

  浪人塚からパーライト工場裏を通り、樋橋を渡ると再び●今の国道に合流する。その先は立場で賑わっていた「樋橋」という。ここは立場の中でもかなり大きく、「間の宿」のような役割もしていたという。
 さらに行くと大きな●ゴミの焼却工場があり、旧道はその中を通っているようなだが、国道の右手一帯は工場敷地で、とても通れそうな雰囲気ではなく国道を歩くことにした。工場外れの「六峰温泉」の中を通って階段で下に下りられるという話もあったが、温泉が定休日で入れず結局旧道を歩くことはできなかった。

●木落し坂
 町屋敷大橋を通過していくと、左側に草で覆われた急な坂が見えてくる。ここが諏訪大社の神事で有名な「木落し坂」という。7年に1度行われる神事の時に、巨大な材木を上から滑り落とす雄大な神事で知られ、怪我人も続出するという。下から見上げるとかなりの急坂で大木と一緒に滑り落ちたら相当危険であろうと実感する。  13:10
●芭蕉句碑」
 坂の先の左手の奥に立っている。句碑は「芭蕉200回忌」の明治26年10月12日、地元の有志によって建立されている。 句碑には
 「ゆき散や穂屋のすすきの刈残し」       とある。

 落合橋を過ぎて、●旧道は左手に入るので、曲がって行った。ここは特になんということもなく、ただ旧道にこだわっただけ。
●諏訪神社・春宮
 バス停「山の神」を通り過ぎ、しばらく歩くと右手に旧道入口があり、右下に「諏訪大社春宮」が見えてくる。諏訪大社には「春宮」と「秋宮」があり、春宮の方は「下社」とも呼ばれている。下諏訪駅から遠い為か、秋宮ほど参拝者は多くないが、南側に長い道路が続き、歴史の深さが偲ばれる。 13:50

●万治の石仏
 春宮境内から左手奥に入り、赤い橋を渡った畑の奥に鎮座している。岡本太郎が激賞したというもの。ここの石仏は普通の石仏と違い、大きな自然石の上に「首」がちょこんとのっていて、不格好であるが、かえってユニークな石仏として人気がある。案内板
 少し歩くと左手に「慈雲寺」という寺が見えてくるが、ここの入口には●「龍の口」と呼ばれる湧き水が流れ落ちている見事な龍がある。龍の口は「寛政」頃に作られた物と言われ、昔からここを通る人の間でも評判だったという。 

 慈雲寺を出て少し歩くと右手民家前に小さな石碑が見られるが、これは●「下諏訪の一里塚」と呼ばれていた55番目の一里塚がここにあったという跡。今は石碑が残るだけ。
●御作田社
 少し先の左手に神社があり、境内に柵で囲われた小さい水田がある。春宮の「御田植神事」はここで行われる。収穫された稲は春宮の神供として捧げられる。 
 さて、この先を行くと「下諏訪宿」入口で、当時の入口には番所が置かれていたという。

●下諏訪宿:甲州道中、中山道合流之碑
 14時15分。合流地点到着。和田宿を7時30分に出発し、ここまで21kmを6時間45分ほど。和田峠を3時間程度で通過したことになります。結構早いペースでした。今年の3月30日、甲州街道の終点としてこの地点に立って以来となります。甲州街道の時は時間が無くて、参拝できなかった●諏訪大社・秋宮もゆっくり参拝できました。御柱も立っていました。4時過ぎの特急で帰宅しました。

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