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 65 愛知川宿から武佐宿へ 歩行地図  
 愛知川-御幸橋-五個荘中町-小幡-三俣-清水鼻-老蘇-西生来-武佐  9.7 km

65 愛知川宿
 愛知川は「恵智川」とも書かれ、宿はずれに流れていた川からその名が起こっている。ここも東山道の頃からの宿駅で、かなり古くから栄えていたが、宿場に制定されたのは江戸時代になってから。「近江商人発祥地」の一つで、江戸時代は近江商人らの活動が活発で賑わっていた。
本陣1、脇本陣1、旅寵屋28

2009年10月26日高宮宿からの続き
■愛知川小学校~福祉センタ-
  本日最後に訪れるのは、愛知川宿。2時半位には近江鉄道の「武佐駅」に着きたいので、急がないといけない。雨がまだ降ってます。
 高宮からやってくると「中山道愛知川宿」と書かれた大きな●「冠木門風ゲート」が迎えてくれる。
 しばらく歩くと小さな川が流れていて、ここには●「愛知川宿北入口」と彫られた石碑が置かれているので、正式にはここから宿場が始まるのかもしれない。  11:55

 愛知川にはなぜか●「和菓子屋」さんが何軒もあるのが目にとまる。隣は創業慶応元年という●「しろ平老舗http://www.shirohei.com/info.html
 しばらく行くと大きな交差点に出て、ここは●「ポケットパーク」として整備されて、歌川広重のむちん橋を描いた絵のレリーフがあったり、「明治初期」に使われていたという「郵便ポスト」を復元した珍しい「黒ポスト」も置かれている。この黒ポスト、レプリカではなく今も実際に使われている。12:00

■福祉センタ-不飲橋
 右手に●八幡神社がある。創建は藤原不比等存命中(養老年間)。数度の炎上の後、本殿は寛文11年(1671)頃に建立された。と推定され、県の有形文化財に指定されている。神社の隣には高札場跡の石標がある。
●愛知川宿の町並
 街道沿いに古い家もいくらか見られる。老舗もあるが、新しい建物が建ち、本陣など遺構は残っていない。愛知川宿は中世以来近江商人中心地の一つとして発展してきたといわれるのだけど、過去の話になってしまったのだろう。ここも食堂の類は見あたらず、食にありつけなかった。 

 料亭・竹平楼(たけへいろう)がある)。
宝暦8年(1758)創業という、江戸時代は旅籠という老舗。明治天皇が北陸、東山道巡行の際には、ここで御小休された。左手には「明治天皇御聖蹟」の石碑が立つ。現在は料亭で玄関前に「 旅籠 竹の子屋」 と書かれた提灯が掛けてある。   12:05

■不飲橋~五個荘中町
 竹平楼を過ぎると、不飲川が流れていて、●「不飲橋」が架かる。小さな橋で気がつかないで通り過ぎてしまった。不飲川は不飲池を水源とする川で、伝承では昔池で戦いがあり、池に血が流れ込んだとか、平将門の首を洗ったので、誰もこの池の水を飲まなくなった」という。 また愛知川宿の冠木門ゲートをくぐり国道に合流し、●御幸橋を渡る。江戸時代は手前に見える「祇園神社」横を通って対岸に渡っていた。ここに木橋が架かり、「むちん橋」と呼ばれていた。「広重」も「恵智川」と題して当時の橋を描いている。

 渡る手前の左手に●大きな常夜燈があり、弘化3年(1846)の銘がある。旅人の水難防止と安全を守るため、地元の有志が金を出し合って、高さ4m35cmの大きな常夜燈を建てた。 橋の位置が変る度、場所を変えたようで、現在は 祇園神社境内にある。
 対岸にも●文政8年(1825)の常夜燈があり、両岸を照らしている。橋の両方に常夜燈のある所は結構多い。 12:22

■五個荘中町~三俣
 御幸橋を渡ると五個荘(ごかしょう)中町に入る。橋を渡りすぐ左折して行く。近江鉄道の踏切を渡り、常夜燈を見ながら、右折して行くと右手に東嶺禅師御誕生地」と彫られた石碑が置かれている。東嶺禅師とは「臨済宗中興の祖」と呼ばれる「白隠禅師」のもとで修行した人だという。もう一度踏切を渡ると●「小幡」という所。この先背の高い「常夜灯」が置かれている所で右折して行くが、ここの常夜灯には「太神宮」と彫られていて、●「ポケットパーク」となっていて、東屋風の「休憩小屋」がある。ここでしばし小休止。

 大同川を渡ると、右手に●町役場が建っている。役場を過ぎると左手に再び「ポケットパーク」があり、ここに「てんびんの里 五個荘」の看板が立って、「中山道分間延絵図」の看板も立つ。 ・・・・五個荘などの地域には、中山道など多くの街道が通っている為、商業が発達し、後に近江商人と呼ばれる人たちが誕生した。近江商人はてんびん棒を担いで商売に活躍し、財をなした人が多く、五個荘を「てんびんの里」と呼んでいる・・・・・・・
 旧道をしばらく歩くと「三俣」と呼ばれている所に出るが、右手に●常夜燈が立っていて、「右京道」「左いせ ひの 八日市」と彫られている。
 ここから右手に入ると「近江商人発祥地」の一つ「五箇荘・金堂」集落がある。重要伝統的建造物群保存地区の指定がされていて、行きたいところであったが、雨も降り、時間もなく断念せざるをえなかった。12:50

■三俣~老蘇の森
 左手に再び●ポケットパーク」があって、ここには「明治天皇北町屋御小休所」碑が置かれているが、本当は向かいにある大きな家が天皇の休止処で、家の庭に石碑が見られる。
 北町屋バス停」を越えた先の、右手に●大きな草葺き屋根の家がある。家の横には「金比羅」と彫られた「常夜灯」も残っていて、大名や公家などの休憩場所に使われ、茶屋本陣の役目を果していたという。 13:00

 旧道はやがて国道に合流し、すぐ右手へ入って行くが、入った所が「清水鼻」といって、立場として賑わっていた場所。途中に●清水鼻の名水が湧き出ている場所が残っている。
 しばらく行くと分岐している所へ出て、正面の案内板では、左へ行くように指示されている。
 「近江歴史回廊」作製のパンフレットの地図では真っ直ぐ行って、石寺楽市方向へ行くようになっているが、ここは案内板に従い、左折することにした。しばらく歩くと再び国道と合流する。向う側に●「老蘇の森」が見える。旧道はここを横断する必要があるが、信号がないので、車を見計らって急いで横断した。この先が老蘇神社」など通過して、「武佐宿」になるが、雨も降るしで特急で通過してしまったので、次回はここまで戻ってゆっくり見直したいと考えた。近江鉄道「武佐駅」14時50分頃の電車で東京へ帰った。 

2010年1月29日東京より夜行バスで京都へ。JR東海道線で安土へ戻り、タクシーで老蘇神社までやって来た。ここからゴールの草津宿まで歩く予定。快晴でよかった。     8:05
■老蘇の森~亀川
●老蘇神社
 人の住めないような荒れ地だったこのあたり、「石辺大連」という人物がここに杉、松」などを植え、神助を仰いだところ、大森林になったといわれ、そして石辺大連は百数十歳まで生きたと伝わっている。そんな事からここの森は「老蘇の森」と呼ばれるようになり、石辺大連翁が森の中に社殿を建立したのが「奥石神社」だという。●本殿は天正9年の再建で、「織田信長」が寄進したもので「重要文化財」に指定されている。平日の早朝で誰もおらず、日もいい具合に差込みとても気分がよろしい。

 奥石神社のすぐ先の路地を右手に入って行く道を「陣屋小路」といい、突き当りに●根来陣屋跡がある。鉄砲で有名な根来衆が家康の家臣となり、このあたりを知行所とし、陣屋をおいたという。
 小さな「轟川」を渡るが、ここには●「轟地蔵跡」の説明板が立っている。轟地蔵は小幡人形の可愛い千体仏で、安産祈願のお地蔵さんである。中山道分間延絵図にはこの地に轟地蔵が描かれている。現在は福生寺に移されているという。8:27

■亀川~武佐
 右手に●鎌若宮神社がある。一説に老蘇神社というのは、東西に対になっていて、西の老蘇神社だったという。 ●東光寺は、豊臣秀吉の祐筆だった 「建部伝内」の住居跡で、寺は清水鼻にあったが、観音寺城落城後に、寺の名と本尊がこの寺に移ってきたという。祐筆とは、武家の秘書役を行う文官のこと。公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった)

 亀川を過ぎ、しばらく行くと、用水の右手に●泡子地蔵碑が建つ。旅の僧が残した茶をその僧に恋をした村の娘が飲んで子供が出来、帰路、僧が立ち寄り息を吹きかけると泡に戻ったという。醒井宿の西行塚と同じような伝説がある。
 西生来集落を越えればまもなく武佐宿で、入口だった●「大門跡」に到着した。 9:08

64 高宮宿へ   66 武佐宿へ