22岩村田宿から塩名田宿へ 歩行地 図
 岩村田−相生−浅間病院−平塚−塚原−塩名田  5.8 km
22岩村田宿
 ここは鎌倉時代からこの付近を支配していた「大井氏」の館があり、商業地として発展していた。また宿場であると共に「内藤美濃守15000千石」の城下町でもあったので、堅苦しい城下町の雰囲気が嫌われ、大名や公家は泊まらず、旅人もあまり寄りつかなかった。従って本陣や脇本陣などはなく、旅籠が8軒あったのみであった。
本陣0 脇本陣0 旅籠8

2008年7月5日小田井宿からの続き
■岩村田〜相生町
●善光寺道標
 住吉神社を過ぎた右側に大きな「従是善光寺道」の石柱が立っている。これは平成8年に復元建立したもので、古いものは住吉神社に移設してある。●岩村田の町並み
 今までずっと寂しい町を歩いてきたので、アーケードのある商店街に出くわしていささかびっくり。新幹線の駅ができたりしたこともあるのでしょうが、高崎以来ではないかのような気がする。同じような看板造りの商店が連なっていて、なかなか壮観。

●龍雲寺 
 武田信玄の遺骨が出土した寺である。武田信玄は上洛途上で、病気が悪化、そのまま亡くなってしまう。死後死は隠され、「影武者」が使われていたという。ところが、遺骨は生前信玄公と親しかったこの龍雲寺に運ばれ、ここに埋葬されたと伝えられている。それらを収めた壺が発掘された場所には五輪塔が建立されている。※2008年9月28日再訪する機会があり、取り直しました

●西念寺
 商店街中央付近を右手に入ると「西念寺」という寺がある。ここも信玄公ゆかりの寺で、昔はもっと広大な敷地をもっていたという。山門鐘楼も堂々としており、楼門も12本の柱の上に立っていたり、立派なお寺でありました。七代目岩村田城主 内藤美濃守正国のお墓があるというけど、墓の位置などはよくわからなかった。15:10

 ■相生町〜平塚
商店街を抜けると、相生町の信号に出るので、これを右折して行く。右手角に「西宮神社」がある。直進する道は「佐久甲州街道」といい、甲州に続いていた。岩村田宿も大体ここらあたりまでだった。右折して小海線踏切を渡る。線路先は枡型に曲がっていたらしく、左手に「御嶽神社」があって、石碑群が残っている。

 右手岩村田高校を過ぎるあたりで、ふと後ろを振り向くと、ドームが見えた。プラネタリウムと思って、後で調べると「●佐久市子ども未来館」というのであった。左手浅間総合病院に沿って左へカーブすると突き当たりに●「相生の松」がある。記録によると、文久元年(1861)に皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁するため、旧中山道のこの場所を通り、野点をされたと言われている。「相生の松」は岩村田地域にとって、シンボルのような存在で、相生町という地名も松にちなんで名づけられたという。現在の松は三代目ということだ。15:40

 相生の松を抜け、しばらくは田んぼの中の道をテクテク歩く。砂田橋の少し先には平塚の一里塚があるというので注意していたが、塚などは見つからなかった。街道は落ち着いた家並みの「平塚」にはいります。集落、中ほどの右手の家に●「公衆電話」と書かれたレトロなドアがありました。

 ■平塚〜塩名田
中山道はやがて平塚から「塚原根々井塚原」と呼ばれている集落に変わっているが、左に少しカーブする手前には●「百万遍供養塔」が置かれている。また再び田園地帯を行きますが、やがて「下塚原に入ります。ここのバス停は瓦葺きの屋根で、宣伝の紙が派手に貼ってある。みなレトロ風なポスターで風情が出ている。
16:20

 妙楽寺を過ぎるとやや緩い下り坂で、小さな川を渡って行くと、右手上に駒形神社が見えてくる。参道は橋になっていて、小さな川を渡り階段を上ると上は公園だが、左手にひっそりと見られるのが本殿で、中には「騎乗の男女二神像)」祀られているというで放牧に関係した神社ではないかという。●本殿は文明18年(1486) の創建と伝わり、「重要文化財」に指定されている。 説明版

 駒形神社を出ると急な下り坂に変わり、やがて「浅科村」と「佐久市」の境界を示す標識が置かれている。浅科村に入ると右手に製材所が見えてきて、ここからしばらく歩くと大きな五差路に出ちょうどこの交差点を渡ると塩名田宿の入口です。
塩名田宿へ続く。少し急がないと望月へ着かなくなる。16:35

 
21 小田井宿へ
 
23 塩名田宿へ