64 高宮宿から愛知川宿へ 歩行地図
 高宮町大北-鳥居前-高宮橋-葛籠町-四十九院-豊郷-歌詰橋-愛知川  8.2 km
64 高宮宿
 高宮は多賀大社の入口にあたり、大鳥居が町の中央に建っている。また街道時代以前より市が立つ等人々の往来は盛んで、宿場が開かれた後も「高宮布」と呼ばれる「麻布」、近江八幡「蚊帳」の集散地として賑わいました。
本陣1 脇本陣2 旅籠23

 2009年10月26日 鳥居本宿からの続き
近江鉄道踏切~高宮神社
 相変らず雨が降り続いている。近江鉄道踏切を横切ると高宮宿だったといわれる。それはそうと、この近江鉄道には東海道の水口から乗って以来、今年は中山道を歩く時、何回か乗る機会がある。いつも人がいないので、相当の赤字線と思うけど、廃止されてしまうと、中山道を歩けなくなってしまうので、残していてほしいものである。踏切手前に「多賀大社の常夜燈」と高宮宿の標柱が立っている。  9:38

 宿に入り、右側に高宮神社がある。
鎌倉時代中期に建てられたと伝えられる古い神社で、古くは 「十禅師宮」 と称されていたが、明治になり、高宮神社と改称された。長い参道を行くと立派な随神門があり、嘉永2年(1849)のもの。拝殿は厳かな雰囲気が漂い、本殿は八棟造りのような形をしている。本殿は延宝6年(1678)の建立になる。またここには芭蕉の句碑があるといわれていたが見落した。

高宮神社~円照寺
 神社の前の建物は、高宮布の問屋であった布惣跡である
 高宮布とは高宮周辺で産出された麻布のことで、室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されてきた。江戸時代に入ってからも、高宮は 高級麻布の集散地 として栄えた。 当時の布惣は、7つあった蔵がいつも一杯で全部出荷されるとすぐ一杯になった。という。 
 高宮宿の町並
高宮の町は商業の盛んな町であり、多賀大社への入口でもあって、とても賑わい、卯建の上がる家など、古い家並みが残っている。雨だったのであまり人出は多くなかったが、結構交通量は多かった。右手に提灯を製造している昔ながらの店がある。  9:50

 左手に巨大な鳥居がどーんと立っている。多賀大社の大鳥居である。
 ここから東へ3km程の所に「多賀大社」がある。多賀大社は「古事記」、「日本書紀」にも出てくる古い神社で伊邪那岐、伊邪那美を祀る。 時間が無く、行けなかったのが惜しかった。 鳥居は石造り、高さ11m、 柱の直径1.2m、柱間8m、という大きさで、寛永年間の造営という。鳥居の脇には、高さ6mの常夜燈がある。裏側に13段の石段がついていて、灯火ともし用と思うが、珍しい形をしている。   9:55

 鳥居から少し先、右手に古い家(小林家)があり、案内板の横に「 紙子塚 」と刻まれた石碑が建てられている。芭蕉は、貞享元年(1684)の冬、予定した寺に泊まれず、縁あってこの小林家に一泊した。ところが、小林家では紙子の汚い僧姿の芭蕉をただの坊さんぐらいにしか考えておらず、その夜、芭蕉は寒さに耐え横になる自分の姿を 「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」 と詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、芭蕉と知った小林家では、新しい紙子を贈り、古い紙子は庭に埋め、 紙子塚 を造り代々大事にしたという。 

 右手の家に脇本陣跡 の案内が掛けてある。脇本陣は2軒あったが、その一つで、門構え、玄関付き、建坪244m2、門前は高札場となっていた。この脇本陣役は、慶長13年(1608)から問屋も兼ねており、道中の人馬の手配や荷物の継ぎたてを行っていた。
 その先の左手に本陣の小林家がある。
門構え、玄関付き、間口27m。 建坪396m2、の武家風の構造をした家だったが、現在は表門のみが遺存されている。 10:05 

円照寺~高宮橋
 本陣前に明治天皇が宿泊されたという、円照寺 がある。明慶7年(1498)、高宮氏の重臣北川九兵衛が剃度して、仏堂を建立したのが起源。天文5年(1740)の火災で本堂は焼失したが、9年の歳月を費やし再建した。境内には明治天皇ゆかりの「しらんの松」と呼ばれる松の木(現在は2代目)と家康が元和元年(1615)大阪夏の陣に向かう途中、このお寺に寄り、腰を下ろしたといわれる 腰懸石 がある。・・・といわれるが、いくら探してもわからず、雨が降ることもあり、探せなかった。  

高宮橋~葛籠町
 円照寺を出て、犬上川に来ると宿も終りになってしまう。ここに架かる橋は高宮橋であるが、江戸時代には 無賃橋(むちんはし)と呼ばれた。彦根藩は増水時、川を渡れなくなるのを防ぐため、豪商・藤野四郎兵衛、小林吟右衛門らに、橋の費用を広く一般の人々から募らせ、橋を掛けることを命じた。江戸時代には川渡しや仮橋が有料であったが、この橋は無料だった。橋の横に「 むちんはし 」 と書かれた石碑が立ち、地蔵堂が建っている。昭和52年、むちん橋の改修工事の際、橋脚の下から2体の地蔵尊が発掘された。これを天保三年(1832)、最初に架橋された礎の地蔵尊に違いないと信じ、お堂を建てて祀ったもの。10:10

葛籠町~四十九院
 橋を渡ると、法士(ほうぜ)町に入り、葛籠(つづら)町に入ると、右手に松並木がいくらか残っている。
 右手の奥まった所に入って行くと、竹林の中にぽつんと小さな祠がある。若宮八幡宮・産の宮と呼ばれる。南北朝の争乱の時、足利尊氏の子、義詮が文和4年(1355)後光厳天皇を奉じて西江州で戦い、大垣を平定、翌5年京都に帰ることになり、義詮に同行した妻妾が ここで産気づき、男子を出産し、家臣9人と共にここに残った。しかし、子は幼くして亡くなったので、生母は尼になり、この地に一庵を結んで菩提を弔ったという。  10:25

 やがて「出町」の交差点にやって来るが、ここが彦根市と豊郷町との境界で、ここにも「また おいでやす」の碑が立っている。
 ケヤキ並木の中を行くと、「四十九院」の交差点に着く。右手に縣社阿自岐神社の石標と鳥居、常夜燈が立つ。神社は右奥の方にある。このあたり昔の茅葺屋根にトタン板を被せた家が見受けられる。この時代、茅葺の維持管理が難しくなっているのだろう。  11:00

四十九院~豊郷町
 左手に広大な敷地の町立「豊郷小学校」が建っている。昭和12年、ここの出身で、丸紅の番頭だった古川鉄治郎が、当時の金で建物に約30万円、土地に24,000円の大金を寄付し、敷地面積12,110坪もの校舎を建てたというものである。県下初の鉄筋コンクリート造りであり、東洋一の殿堂であったといわれる。校舎は改築されてきれいであった。
 そのすぐ先左手八幡宮の前に「一里塚跡」が復元されている。「石畑の一里塚」と呼ばれる。石畑は、高宮宿と愛知川宿の間の宿として発展し、立場茶屋が設けられた。 

豊郷町~歌詰橋
 「豊郷町役場」を「越えた左手に「くれない公園」がある。この公園は伊藤忠商事・丸紅商店の創始者である 伊藤忠兵衛 を記念して造られたもので、奥に記念碑が建っている。先左手に伊藤長兵衛屋敷跡の碑がある。更にその先左手に伊藤忠兵衛生家があり、記念館になっている。
 天稚彦神社鳥居の隣に大きな旧家があり、その先に金田池というのがある。北50mの処にあって、長年旅人ののどを潤してきた、金田池が地殻変動で出水しなくなり、名水ゆえ模して再現したもの。
 11:22

歌詰橋~愛知川
  金田池の先の右手に又十屋敷 がある。
 江戸末期から蝦夷と内地とを北前船を用いた交易で財をなした 藤野喜兵衛(又十)本宅跡という。我国で初めて「鮭缶」の製造を始めた人物で、今日では「アケボノ印」の缶詰として受継がれている。現在は史料民芸館「豊会館」となっている。屋敷前に何故か一里塚の石碑が立っていた。
  やがて見えてくるのは「宇曽川」に架かる「歌詰橋」で、ここには伝説が残っており、昔平将門の乱を鎮めた藤原秀郷将門の首を都へ運んでいたところ、 その首が目を開いて秀郷に襲いかかってきた。 秀郷はとっさに 「 歌を詠んでほしい 」 と頼むと、首は歌に詰まって橋詰に落ちたということから、歌詰橋になったという。  11:32

 橋を渡って行くと「沓掛」で、二股に別れている地点に出る。ここには「道標」が残っているが、中山道は右手へ入って行く。 「愛知川小学校」を通り過ぎると「中宿」で、前方に「中山道愛知川宿」と書かれた冠木門風のゲートが見えてくる。ここを越えると愛知川宿に入る。

11:52

 
 63 鳥居本宿へ
 
 65 愛知川宿へ