57 垂井宿から関ヶ原宿へ  歩行地図
 垂井東見付-垂井の泉-日守-野上-一ツ軒-関ヶ原           5.2 km
57 垂井宿
 垂井宿は、古代には美濃国府が置かれ、一宮(南宮神社)もあり、中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点となるなど重要な宿場であった。「垂井宿」は一時期、日向国延岡藩領となり、寛永3年(1750年)再び幕府領となった。そして享和4年(1804年)から幕末までは大垣藩預かり所となっていた。宿の町並みは6丁(約655m)あり、町は「東町」「中町」「西町」に分れ、中町が中心で、六歳市なども開かれた。
本陣1 脇本陣1 旅籠27

2009年10月25日 
垂井東方見付~南宮神社鳥居
 大垣駅から垂井駅に8時前に到着。東方見付跡に宿の案内板が作られている。宿に入るとすぐ先は十字路になっているが、ここを左手に行けば「JR垂井駅」へ行く。宿は右折して行く。 右折して宿へ入り、「紙屋塚」という案内板に従い、左手に入って、わかりづらい裏道を行くと「紙屋塚」というものが残っている。これは「和紙」を作る工房があった跡と言われている。国府にも近く、古くから良質な清水が湧き出ていたから紙工房が作られ、美濃紙の発祥の地とも言われている。    8:05

 左手にある垂井町福祉会館を過ぎると道が「枡形」に曲がっているが、ここの右手には元旅籠だった「亀丸屋」が残っている。丸亀屋の「西村家」は、垂井宿旅籠として200年ほど続き、現在も営業している貴重な旅館である。。2階の窓などに当時の面影が残っているという。
 このあたりは中町といい宿の中心地で、左手に問屋場跡の案内が見える。酒屋・茶屋・塩屋・塩肴屋などの商家や木挽・大工野鍛冶・傘張等の職人も居り、「六斎市」も開かれていたということで古い建物があちこち残っていた。  

南宮神社鳥居~垂井の泉
 左手に「本陣跡」がある。垂井の本陣職を務めていた栗田家は酒造業でした。今は歯科医院で、遺構は名にもない。寛政12年の記録によると建坪178坪玄関、門構えがあったが、安政9年(1780年)に焼失した。後再建され明治時代には小学校敷地にも使われた。
 中程の信号のある交差点へ出ると、南側に南宮大社大鳥居があります。将軍。家光」によって寛永19 年(1642)南宮大社が「再建」された時、約400両の金で「石屋権兵衛」が建立したものと言われている。美濃国一宮である「南宮神社」は南へ1200m程の所にあり、時間がかかるので行くのは止めにした。 南宮大社は全社殿十五棟が「重要文化財」に指定されているという、相当大きな神社らしく、いつか是非訪れたいと思う。        8:15

 鳥居の少し奥にあるのが、垂井の由来にもなっている有名な「垂井の泉」で、ここの泉は「天然記念物」の大ケヤキの根」から湧きだし、「聖武天皇」が行幸の際、立ち寄ったり、日本武尊伊吹山征伐の折、毒気にあたり失神した時、この泉で意識を取り戻したりしたといわれている。また古代から数々の歌にも詠まれていて、「藤原隆経」が「詩花集」で「昔見し たる井の水は かわらねど うつれる影ぞ 年をへにける」と詠んだのを始め、芭蕉の「葱白く洗ひたてたる寒さかな」句碑が建っている。  8:25

垂井の泉~日守
 大鳥居のある十字路に戻り、宿場を先に進むと 左手の古い家は「油商」を商っていたという「油屋卯吉の家」 で、建物は昔のままだという。当時の雰囲気をよく残している、貴重な家と言えるだろう。
 向い側の寺が「本龍寺」で、ここの門は「脇本陣」にあったものを移築したものだという。ここは「芭蕉」が冬ごもりしたことで知られ、奥には句碑が建立されている。明治天皇北陸東海両道の巡幸の際にこの寺で御小休されて、石碑が立っている。

 本龍寺を出ると、やがて垂井宿も宿はずれになり、左手には「西見付跡碑」が立てられている。左手に広重の「垂井宿」のレリーフが置かれている。「広重」がこの付近から西を見て、雨の降る中山道松並木の中を大名が行列をつくり、西より垂井宿の「西見付」へ入ってくる様子を描いたもの」と案内にある。
 宿を出てしばら歩くと、旧道はJR線踏切と国道を斜めに横切り、「日守」と呼ばれる集落に入って行く。   8:45

日守~野上
 左手に日守の茶所」と「垂井一里塚」が隣合っているのが見えてくる。
 「日守の茶所」は 江戸末期に、岩手の美濃獅子門「化月坊」が、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)に「秋風庵」を建て、それを明治になって、一里塚の隣に移し、中山道を通る人々の休み場所として、昭和の初めまで盛んに利用されたという。
 その隣が「垂井一里塚」で、南側だけがほぼ完全に残り、国の史跡に指定されています。国史跡の一里塚は東京の志村とここだけの二ヵ所だけであり、貴重な一里塚ですと。(2009年11月21日読売新聞、新茶屋の一里塚も追加指定され三ヵ所になったそうだ) 8:50  

野上~桃配山
 一里塚跡を出ると「日守西信号」で再び国道に合流し、途中「垂井町」から「関ヶ原町」へと変り、再び国道を横切って(国道21号が二つある)、JRと国道に挟まれた旧道を進みます。
 この先は「野上」と呼ばれる地名になるが、ここは「更級日記」に元々「東山道の宿駅」として古くから知られ、「遊女」が多くいる宿駅でもあった。道を進むと関ヶ原に近くなるせいか、大名の旗印があちこち翻っていたので、少し撮っておいた。左から「京極忠高」 「石田三成」 「小早川秀秋」 「徳川家康」と思う。他にもたくさんあった。

 先に進むと松並木が見えてきた。野上地区には樹齢300年松並木が両側に十数本残っていて、岐阜県内で唯一残る松並木で、町では天然記念物に指定し、防虫対策や補植で保存に努めているということだった。
 左手に六部地蔵堂がある。なにかお祭でもあるらしく、テントが張られ、住民が準備で忙しそうにしていた。「六部」とは、「六十六部」の略で、全国の社寺などを厨子(ずし)を背負って読経しつつ巡礼して、旅をしながら修行をしている人ということで、厨子を背負って行脚中の行者が宝暦11年頃、この地で亡くなったので里人がお堂を作ってお祀りされたという。    9:30

桃配山~関ヶ原町
 旧道は再び国道に合流するが、合流地点から国道を少し戻る所に「家康」が関ケ原の合戦で最初に「本陣」を置いたという「桃配山」がある。山の名前の由来は、昔「壬申の乱」の際ここに陣を張った「大海人皇子」へ村人が桃を献上し、それを皇子が兵士に配ったところ、兵士の意識が高揚し、ついに勝利したということからその名がついたという。
 元の国道に戻り、国道を歩くと先は「一ツ軒信号」から再び右脇の旧道に入って行く。 ここはきれいに整備され、松並木が復元されている。また再び国道に合流するが、国道に出て、右手の「若宮八幡神社」の所が関ケ原宿入口だった。   9:45

 
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