46 大井宿から大湫宿へ  歩行地図
 横町-大井橋-十三峠-槇ヶ根-四ツ谷-紅坂-深萱-権現山-中仙道GC-大湫     13.3 km
46 大井宿
 宿の成立は古く、文禄年間(1592~)には旅籠も置かれ、伝馬も置かれていた。
 名古屋・伊勢に通じる下街道の分岐点もあり、中山道の旅人だけではなく、伊勢参りや善光寺参りの参拝客や商売に訪れる尾張商人や尾張に向かう木曽荷などで、美濃16宿中随一の繁栄を誇っていた。宿は横町・本町・堅町・茶屋町・橋場という五町に分かれ、それぞれの町は、街道が直角に曲がる枡形によって区切られていた。一説では幕府は大井宿に城を置き、城下町にする計画だったともいわれる。
本陣1 脇本陣1 旅籠41

2009年8月23日 中津川宿からの続き。11:10
上町~本陣跡
 中津川から来て、県道を左折すると菅原神社鳥居が見えてきて階段下へ降りていく。 階段の下は下り坂になっていて、寺坂という、大井宿の入口手前にあたる。
 あたりは多くの石仏や石碑が並んでいるところで、これらを上宿石仏群という。石仏を沢山立てて、病気の平癒と悪病や悪人の侵入を防ぐことを祈ったわけである。

 明智鉄道のガードをくぐって、坂を下りて行くと、右手に高札場が復元されている。この坂を「五妙坂」という。このあたりが宿場の入口になります。高札場から横橋を渡り進むと、右手に「延寿院」があり、第一の枡形になります。
 延寿院前を左折し少し進むと大井本陣跡があります。大井宿本陣は残念ながら昭和22年に母屋部分は火災で焼失してしまいましたが、幸いにも本陣の表門周辺はやけ残り、安土桃山様式を伝える門はこうしてみることが出来ますという。  11:25

 本陣跡~旅館「市川
 大井宿の町並
 本陣跡の右折する所が第二の枡形で、曲ると宿の整然とした町並が続きます。格子戸を構えた旅籠屋風な家や、塗込造りや虫籠窓のついた家々は旧街道の姿を残しています。
 「ひしや資料館」
 庄屋「古山家」は屋号を菱屋といい、酒造と商店を営み、享保年間から幕末までの150年間、庄屋を勤めた。建物は豪壮な町屋建築の特色をよく示しています。現在は資料館として開設されている。

 宿役人の家
 林家は宿役人を務めていた家。文化2年に本陣家より分家して以来、明治に至までの60余年間、代々大井宿役人の問屋役を務め、名字帯刀を許された家柄です。宿役人とは道中の荷物の継立の差配、継立事務を行う、宿場の最も重要な役人であって、宿内の有力者が務めた
 明治天皇御在舊址
 明治13年)6月、明治天皇の行幸の際、この伊藤弥兵衛宅(現・岩井家)で宿泊された。伊藤家の奥座敷はそのままの姿で保存されているとか。 

 旅館「市川」~大井橋
 元旅籠屋「角屋」(現在は旅館「いち川」)の角を右折する所が第三の枡形。旅籠屋「角屋」の姿はもうないが、壁に明治初年の角屋の写真が掛けてあり、木曽路に多い出桁造り、取り外しの出来る格子戸、軒には講札が多くかけてある。と説明に書いてあった。
 右折すると左側に「庄屋古屋家」の建物が建っている。当家は江戸時代には商業を営み、天保元年から20年ほど庄屋を勤めた家柄です。
母屋や塀は柱・梁・垂木(たるき)も土壁で塗り、北側屋根に卯建(うだつ)をつけ、北側の土塀は厚さ30cmの防火壁として、全体が火災予防の建築となっています。11:35

 大井橋~本町通
 市神神社で、左折するのが第四の枡形で、少し行くと右手に白木改番所跡があるが、アパート脇で案内板が立つだけ。少し先で左折するのが第五の枡形、最後に第六の枡形で右折して大井橋を渡る。大井橋が西の入口で、大井宿はここで終ります。
 現在の大井橋の欄干には「木曾六十九次」の広重の絵が掛けてある。
 橋を渡ると「中野村」現在の銀座通という、商店街に入るが、こちらが駅に近く賑やかになっている。
 ※細久手の「大黒屋」さんから、「大井から細久手まで山道で食料が買えないので、用意して下さい」と言われ、「ひし屋」の近くのコンビニで仕入れしようとしたら、見事に閉店であせったけど、JR恵那駅の中にコンビニがあり、そこで買うことができた。恵那市といってもコンビニはあまりないので注意が必要。

 本町通~十三峠入口
 駅へ続く中央通りを横断して行くと、左手に「中山道広重美術館」がある。その先には中野村庄屋を務めた本酒屋があります。和宮が通った時に助郷村に負担を課した為に「熊崎新三郎事件」というのが起きている。
 本町通りを過ぎて、「中野観音堂」を左手に見つつ、ずーと行くと新田公民館前に西行硯水公園があります。公園には西行が硯で墨を摺るときに水を使ったという伝説の池があります。大井には西行にまつわる伝説の地が多い所で、大井宿で病に倒れ、ここで亡くなったということになっている。  12:15

 中山道は左手に西行塚碑が立つ、中央線の踏切を渡ります。踏切の脇に竹を切った杖が置いてあったので、借りておいた。山道に入るので重宝しました。
 ここから先は中央高速ができた為、一部なくなってしまっている。中央道をくぐり左へ曲がり、山に向います。
 [是より西 十三峠」の標柱が立つ入口から、いよいよ山の尾根を越える峠道に入るわけである。幕府が防衛上の理由でわざと困難なルートを作ったといわれ、現在でも鉄道の通らない難所といえる。最初は「西行坂」という石畳道を上がる。十三峠といっても13だけかというとそうではなく、「十三におまけが七つ」とも言い、説が色々あって、要するに沢山の峠があるのだということだろうと思い、あんまりこだわらないことにした。   12:25

 西行坂を入るとすぐ右手に上る山道があり、上っていくと「五輪塔(西行塚)」が建っている。全国行脚中の西行がついにここで亡くなったと伝えられ、供養塔が建てられたと伝わる。五輪塔は高さ1.4mほどのもの。西行は十二世紀の人だけど、塔は室町時代のものとか。
 付近は高台で見晴しがよい。石畳はほどなく終ってしまい細かい砂利道に変ります。「西行の森公園」のそばに「槙ケ根一里塚」があり、左右塚がはほぼ完全な姿で残っています。 江戸から数えて88番目の一里塚。西行の森公園は「桜百選」にも選ばれる名所だそうです。  12:36

  公園を過ぎ、気持の良い山道を歩きます。まだ最初で難所というほどのことはない。途中「七本松原」跡とか標注が立っていたけど、なにもないので通り過ぎ、広い場所へ出ます。
 そこが槙ケ根立場(茶屋)跡」です。江戸時代の末期、ここには槙本屋・水戸屋・東国屋・松本屋・中野屋・伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が九戸ありました。旅人は餅を並べ、ひと休みして、また旅立っていった。やがて鉄道ができ、中山道を利用する人が減るにつれ、山麓の村や町に移転し、跡が残るだけである。

 ここには「伊勢神宮遥拝所」もあり、伊勢までの旅費や時間のない人は、ここで手を合わせ遥拝したと言います。
 またここは中山道から分かれて土岐、多治見を経て、名古屋、伊勢へ向う「下街道」の分岐点でもあった。「右 西京 大阪 ・ 左 伊勢 名古屋 道」と書かれ、明治8年に建立されたという、道標が立っている。
 「首なし地蔵」
  茶屋跡を進み、途中「お姫様」の為に造られたという。「姫御殿」跡を見逃してしまったが、その先左手の階段を上がった所に「首なし地蔵」が立っている。伝説では、二人連れの武士が道中、地蔵前でい昼寝をしていたが、一人が眼を覚ますと、仲間の首がない。怒った武士が「仲間が襲われたのに黙ってみているとは何事」と地蔵の首を刀で斬り落としてしまったという。(左側が首なし地蔵)  13:08

首なし地蔵からは下り坂になるが、急なため息が乱れ、裾が乱れ、行列が乱れることから「みだれ坂」と呼ばれていた。
 やがて「乱れ橋」と呼ばれる橋が架かる所に出た。橋が架かっている川は昔は「乱れ川」といい、石も流れる程の急流だったという。そこで飛脚達が出資して宝暦年間に長さ7.2m、幅2.2mの橋を架け、荷馬1頭につき2文の通行料を徴収したといいます。
 旧道はやがて、「四つ谷立場」と呼ばれた集落に入る。「平六茶屋跡」碑や「びやいと茶屋跡」碑などをみて過ぎて行くと、(ここらあたりは標柱ばかりで、旧跡らしきものはなにもない)。やがて「紅坂一里塚」が見えてくる。江戸から89番目。両方の塚が残っていた。  13:40

 紅坂の一里塚を進むとすぐに石畳道が始まります。「里すくも坂」と呼ばれる坂を下って行くと、三社と彫られた常夜燈があり、道の反対側に佐倉宗五郎大明神がある。なぜここに義民で有名な佐倉宗五郎の名前が出てくるかというと、元禄年間、岩村藩で農民騒動が起き、竹折村の庄屋田中氏は将軍に直訴して農民達を救ったが、打ち首になり、村人達が密かに田中氏を宗五郎大明神として祀ったのだろうといわれている。右へ入った奥の「神明社」には芭蕉の句碑があるとか。但し見ていない。坂を下り藤川を渡り県道へ出ると、右側に藤村高札場が復元されていた。「深萱立場」に入ってきたわけである。  13:58

 高札場がある所に深萱立場跡があります。大きな案内板も立っていた。大井宿から大湫宿は距離が3里半もあり、13峠の難所でもあり、茶屋が沢山あった。ここの立場は本陣もあって規模が大きかったようだ。県道から右手へ入っていきます。
  立場を出ると再び峠道に入ります。ここから上がり坂は「西坂」と呼ばれ、先には「ちんちん岩」なども見られるとあったけど、どこにあるのかさっぱりわからず、「茶屋坂」の階段状の所を行く。  14:16

 右手に「中山道」の大きな石碑がある所が、恵那市瑞浪市の境で、大久後の茶屋跡の標柱だけ見て、「大久後の観音坂」を上がる。このあたりさすがに坂が多くて、記録取っていくのがいやになってきた。
 観音坂を上がり、「観音坂の霊場巡礼碑」前を通って、広い道へ出ると、「灰くべ餅の出茶屋」という碑が立っている。ここも碑だけでなんにもなし。
 小さな集落を過ぎると、観音堂と弘法様があり、権現坂の急坂を上る。炭焼立場跡の所には建物が少し集っている。        
  権現山一里塚

 江戸からちょうど90番目という一里塚で「樫の木坂一里塚」とも呼ばれて、両側に原型を留めるきれ いな塚でした。
 
 またここに太田南敏の紀行文一節が刻まれた樫の木坂碑がある。

14:57

 権現山一里塚からは珍しいことにその名も「中山道ゴルフ場」を分断して中山道が通ります。
 中山道を残すためにそうしたようで、カート道からゴルフ場へ入れてしまう。
 その先右手に順礼水跡の碑。昔、旅の巡礼が丁度8月1日にこの地を通りかかり、具合が悪くなり倒れてしまったが、ここの水を飲んだところ、一命をとりとめたという。現在は枯れてしまっている。
 「十三峠の三十三所観音石窟
 「阿波屋の茶屋跡」といわれる場所にあり、道中の旅人の安全を祈って、天保11年(1840年)に建立された。大湫宿の馬持ち連中や助郷村などの寄進による三十三体の馬頭観音が石窟の中にある。また石窟の前の石柱には定飛脚の嶋屋、京屋、甲州屋、伊那の中馬連中などが出資者として名を連ねている。
 三十三体の観音は「西国三十三カ所霊場巡礼」信仰にちなみ、ここにお参りすれば西国巡礼と同じ御利益が得られるというわけだ。  15:16

 観音の先は「地蔵坂」と呼ばれて、その名の由来の地蔵が左手にある。
 尻冷やし地蔵
 
ここの地蔵の後ろから「清水」が流れ出ていて、地蔵の尻を冷やしているように見えるので、「十三峠尻冷のお地蔵様」と呼ばれるようになった。
 十三峠は上がり下がりの多い難所で有名だったが水場も少なかったため、ここは「お助け清水」と呼ばれて重宝がられていたという。
 地蔵の先は一旦広いバス通りへ出るが、標識に従い、右手へ入っていく。
 先に続く急坂は「しゃれこうべ坂」とか「しゃれこ坂(八丁坂)」とか呼ばれていて、太田南畝の「壬戌紀行」の一文を刻んだ「しゃれこ坂」碑が立っている。  15:25

 しゃれこ坂の先が「山之神坂」で、「寺坂」と呼ぶ急坂下って行くと、ようやく十三峠も終りに近づく。
 「中山道十三峠の碑」。これも太田南畝の「壬戌紀行」の一文が刻まれている。また「是より東十三峠」の碑も見られる。
 そしてようやく、大湫宿の石碑が見られる所で、十三峠を越え、大湫宿へ入ってきたわけである。ここに峠入口での踏切の所で借りた、竹の杖を返しておいた。時間は15時35分。入口が12時25分だったので経過時間3時間10分。11km程度を3時間で踏破したので、峠道としてはいいペースだけど、細かい旧跡までは十分に見ることはできなかった。急坂もあったが、そんなに難しい道ではなかったと思う。しかし途中誰にも会わず、8月でも中山道歩く人はいなかったのが残念だった。   15:35

 
 45 中津川宿へ
 
 47 大湫宿へ